俺と「殺人者の記憶法:新しい記憶」

 「殺人者の記憶法」(以下、オリジナル)と「殺人者の記憶法:新しい記憶」(以下、新しい記憶)見てきました。ここ数年の韓国映画よろしく一筋縄ではいかない内容ながら、笑いあり、親子の絆ありと非常にエンタメとして完成度高い作品だと感じたので、そりゃ新しい記憶の方も見に行きますわなと。その新しい記憶の方はオリジナルが118分なのに対して128分と、10分時間が延びていますが、オリジナルに10分追加という感じではなくて序盤のあのシーン(後述します)やこのシーンがカットされていて、オリジナルとはちょっと違った印象の作品になるように意図的な追加・編集したところが見て取れる作品でした。
 映画としてはオリジナルの方が全然好きで、新しい記憶の方はオリジナルで不明だった部分の真相が明らかに…!というよりも、英題のサブタイトルにあるアナザーストーリーという内容が非常にしっくりくる作品になっているように感じましたが、せっかく両作とも見たということで、思い出せる範囲のオリジナル版との違いを中心にまとめた、見れない人も安心(かもしれない)の思いっきりネタバレした感想です。(ちなみに中盤でちょっと記憶が飛んでしまったけど、ソコに多分変更点はないはず…。)

・物語の導入
 オリジナル版ではトンネル出たところで彼が回想をし始めて→警察署のシーンにという展開ですが、新しい記憶では逮捕後に精神病院で検事の取り調べを受けているシーンが挿入されて、新キャラである検事からの追及で主人公ビョンスが過去を回想していくという流れで物語が始まります。つまり、ここで彼が既に殺人犯だということが明らかになっている結末が明示されているので、オリジナルを見た人向けの回想劇(見た人=検事と置き換えても良いかもしれません)と言っても良い作品でだと思ったので、当たり前ですがオリジナル未見の人にはちょっとおススメできない作品だと思いました。

・ビョンスとウンヒ
 物語として一番大きな変更があったと感じるのがビョンスとその娘ウンヒの関係で、この二人の絆を示唆するシーンが新しい記憶の方ではかなりカットされています。特に印象的だったのは、何故ビョンスがレコーダーを使っているのかということを示すシーンや、ウンヒが父に肉まんを差し入れに行くシーンなど、序盤で特に印象的なシーンがカットされているので、オリジナルと違って家族の絆を忘れまいと病と殺人鬼と戦う父親という印象は受けない感じになっています。この他にも中盤以降でもビョンスとウンヒの絆を示す内容は細かくカットされているので、それがラストの結末の違いに響いてくるように感じましたね。

・ミン・テジュの仕事
 オリジナルでは警察官としてのイメージが非常に薄いミン・テジュでしたが、新しい記憶では町の賭博場に乗り込み事件解決の一端を担うというシーンが追加されていて、このシーンの中では自分よりも大きな屈強な男を倒し、賭場に参加してた女性を暴力的に扱っています。
 オリジナルでは絆の強い父娘に突然現れた殺人鬼という役回りで、父と娘の絆が強いから彼が殺人鬼だという部分に説得力が非常に出る(明確な描写がほぼないのに!)のですが、新しい記憶でその部分をあえてカットしているために、彼の殺人犯としてのイメージに説得力を加えるためにこのシーンを追加したのかなという印象を受けたシーンでした。

・クライマックスの後
 とまあ、ここまではどちらかというと映画を見終わった後に忘れてしまうかもしれない小さな変更点でしたが,この作品がオリジナルと決定的に違うのは、森の家でのバトルが決着した後からの描写にあります。
 オリジナルでは、警察に逮捕された彼のその後の様子、アルツハイマーが進行しながらも家族に愛された彼の様子が描かれてハッピーエンド…と思いきや、え?となるラストを迎えます。ここでの重要なポイントは、ラスト迎えて彼のあの記憶が正しいものなのか彼の妄想だったのか明確な結論が与えられないため、見てるこちらは去年の韓国映画哭声/コクソン」を見た時のような不安定な気持ちに包まれるわけですが、新しい記憶ではその部分がかなり明確に描かれるのですよ。(だから個人的にはパラレルなストーリーだと思う訳ですが…)

・新しいラスト
 ということで思いっきりなネタバレになりますが、新しいラストではこの小さな街で起こった全ての殺人事件はキム・ビョンスの仕業だという風に明確に描かれます。20代の女性連続殺人事件も、詩の教室でビョンスに近づいてきたあの女性の死も、そしてなんと親友だったオ・ダルス演じるアン・ビョンマン警察署長の死さえも彼の仕業なのです。
 特に印象的なのは、クライマックスの殺人鬼ミン・テジュの頭が…となっているシーンも実はビョンスの妄想で、アルツハイマーが進んだ彼の頭部レントゲン写真が全く同じ形をしていたという新たに示される事実でして、これらが明確に描かれることで、オリジナルとは180度異なるイメージ、恐るべき殺人犯キム・ビョンスの姿が浮き上がってくるのです。
 そのために、オリジナル版であったウンヒが病院へお見舞いするシーンも無かったことになっており、逆にウンヒは衝撃的な事件の内容を目撃してしまったために、何も語れない失語症になってしまったということが検事の口から語られます。あと、ミン・テジュは普通にイイ人でかわいそうな事件の被害者の一人というオチでした。

・空白の時間
 オリジナルでは、ビョンスのアルツハイマーの症状が進んだ空白の時間は、少々呆けた好々爺のおじいちゃんが現れるという描写が印象的なのですが、新しい記憶ではこの部分に大きな仕掛けがあったことを示唆している内容になっています。
 その内容は、ビョンスの記憶が薄れる空白の時間は殺人鬼の人格が現れるという設定で、だからこそ、彼はミン・テジュが殺人犯だというイメージに囚われてしまい(もしくは確信犯的にすり替えていて)自身の犯した犯罪を認識していないという描写を生んだのだと説明されるのです。ちなみに、その人格が現れる時にはある特徴が登場するという事も描かれて、映画のラストシーンである彼が冬の線路の上に佇む様子はその特徴が明示されているので、殺人鬼キム・ビョンスが再び起こすこれからの事件を予感させるという、オリジナルとは異なるうすら寒いラストに仕上がっています。

・描かれなかった事件
 さて、韓国映画といえば彼と言いたくなるぐらい様々なジャンルの映画にいいキャラクターとして出まくっているオ・ダルスですが、彼が演じるアン・ビョンマン署長がタバコをやめるきっかけとなったタバコ屋の看板娘の事件については、オリジナルでも新しい記憶でも明確に誰がその犯人だという描写はありません。しかし、新しい記憶では彼が過去の事件をフラッシュバックする際に、これまで描かれない事件が一瞬登場します。
 登場する事件は、暴力亭主→成金女性→浮浪児の酔いどれボス→???→詩の教室の派手なおばちゃんで、この???の部分が恐らくタバコ屋の娘なのではないかなと思いました。


 はい、ということで映画の中盤でちょっと記憶が飛んだり、一部記憶違いの内容もあるかもしれませんがオリジナルと新しい記憶の違いは大体こんな感じの内容でした。冒頭にも書いたように私的に映画としての評価はオリジナルの方が断然面白いと思っているのでオリジナルを強くおススメしますが、大部分の内容が変わっていないのにイメージが全く違う作品になっているので、オリジナルが気に入って違う結末も見たいという人向けの内容かなと。通常版じゃなくて豪華版にもう一枚このDVDがついてくるそんな感じの内容だと思いましたね。


 全くの余談ですが、中盤で出てくる詩の先生が「グッチ裕三っぽいな…」とオリジナル見てる時に思ったのですが、新しい記憶見るまではそのことを全く忘れていて、同じシーンで全く同じことをまた思ったので、実は私にも隠れた殺人者の人格があるのかもしれません。(顔面ヒクヒク)

俺と「2017年の映画」

 振り返ってみると実は去年分をやってない!という事実に気付いたりしましたが、まあ、それはそれ、コレはコレということで2017年の映画を振り返っていきましょう。

・劇場鑑賞作品数
 新作映画:177本(2016年180本)
 その他映画:26本(2016年15本)
  計:203本(2016年195本)

・劇場鑑賞回数
 新作映画:178回(2016年181回)
 その他映画:27回(昨年16回)
  計:205回(2016年197回)

 ここ2015年、2016年と200本を下回るペースでの鑑賞でしたが、3年ぶりの200本を超えとなりました。正直、今年の後半は色々忙しくてこんなに見てるつもりはなかったハズなのですが、何が起こっていたというのか…。
 まあ、そんなことは置いておいて今年はさっくりとベスト10の発表から。

1.「SING/シング」
2.「春の夢」
3.「メッセージ」
4.「チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜」
5.「パターソン」
6.「歓びのトスカーナ
7.「女神の見えざる手
8.「勝手にふるえてろ
9.「セールスマン」 
10.「ドラゴン×マッハ!」


 振り返ってみると今年は「シング」が良かった、とても良かったなと。ベタすぎるあぶれ者たちのサクセスストーリーを歌に乗せて送る作品だけども、そのシンプルさがとても私の波長と合っていたのもそうだし、動物らしさを全開にしたギャグも楽しかった。そして何よりも歌が素晴らしかったなと思う訳で、あっ、字幕と吹き替え両方で見ましたがどちらも最高でしたね。まあ、去年もベストは「シング・ストリート」だったし、そういうことです。
 こんな調子でダラダラ一本一本短評も書いていってもいいのですが、総評というか反省というかいくつか思ったこと徒然と。


・幅の狭まり
 年間200本近く見てると、ちょっとでもアンテナにひっかる作品は見る的な鑑賞スタイルになる訳ですが、今年は例年だったら引っかかっていたジャンルや過去作の評判が良かったから見に行ってみようかという監督作品で響かなかったものが今年は多かったなと。じゃあそれが面白くないかと言えば、逆に周りの評判は良かったりするのも多くて、どちらかというと自分の興味の幅が狭くなったのかと感じた一年でしたね。そういう意味で考えると、「チア☆ダン」なんかは数少ない引っかかった作品だったので、非常に印象的だった作品だと思います。
 そうなってしまった一端に、結構映画を見てる時に自分で枠みたいなのを作りながら見てるなと。例えば次はこういう展開になるんじゃないかとか、このキャラはこういう役回りだなといったことをあれこれ考えながらみるので、ある種の答え合わせ的な映画の見方をしてる時があって、正直良くない、ストレートに言うと面白くない映画の見方だと思う訳ですが、もうクセみたいになっていて、これが映画の幅を狭めてる一端になってるんじゃないかなと思ったりしましたね。来年はあんまり小難しいこと考えずに映画見れればいいなと思ったりしますが、まあムリだろうな…。


・フィリピンとイタリア
 大阪アジアン映画祭では今年も色々な作品を見たのですが、今年一番良かったのはフィリピン映画の「ティサイ」で去年の「眠らない」と同じくフィリピン映画が私的にグッときたなと。また、今年は「ローサは密告された」「ダイ・ビューティフル」などフィリピン映画が劇場公開された年でもあり、この二つもとても良かったこともあってフィリピン映画が熱かった年だったなと。
 あと、去年は行けなかったイタリア映画祭に今年は行ってみた。相変わらず今年もとても私好みの映画が多くて満足で、日本でなかなか劇場公開されにくいテーマ、例えばエホバの証人の一家に生まれた少女を主人公にした映画「ジュリアの世界」はこの映画じゃないと見えないなと思わせてくれる作品だったなと。また、劇場公開された作品だとベスト10にも入れたパオロ・ヴィルズィ監督作の「歓びのトスカーナ」や「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」、一筋縄ではいかない名優たちの群像劇「おとなの事情」なんかがとても良くて、来年もイタリア映画は積極的に見に行きたいなと思うのでした。


 とまあ、さっくり考えるとこんな感じの2016年でした。という訳で2017年もぼちぼち映画を見たいと思いますね。では皆さんもよいお年を!

俺と「パターソン」

ジム・ジャームッシュの「パターソン」を見た。アメリカのそんなに大きくない街パターソンに住むパターソンさん(アダム・ドライバー)の一週間を描いた物語で、びっくりするほど映画的な大きな出来事は何も起きない、いわゆる日常系と呼ばれるような作品だ。ただ、その代わり映えのしない日常の繰り返しが生む独特のリズム感が非常に心地いい作品だったのだ。

パターソンさん(地名との区別をつけるつけるという意味で、また彼の誠実な人柄に敬意をこめて本稿ではさん付けで呼ぶこととする)の職業はバスドライバーであり、年代物のバスの様子からまた彼と恋人とのやり取りからも、決して収入に恵まれているとはいえない仕事ではないかと思う。ただ、彼は傍から見ると”何が楽しいの?”という失礼極まりないことを言ってしまいそうな仕事が、自分の天職のように感じているような節があるのだな。
思えば、決められたコースを毎日周回する路線バスの仕事と彼の生活のリズムは共通点が多いように感じる。毎朝6時頃に目を覚まし、朝食のシリアルを食した後、徒歩で仕事場へと向かう。始業前のわずかな合間を縫って詩作に浸ったっていると、同僚にに声を掛けられ彼の愚痴を一頻り聞いたのち、今日のバスは街へと走り出す。そんなパターソンさんの昼食はいつも恋人が作ってくれるお弁当だ。彼のお気に入りの場所で彼女の料理を堪能したのち、彼は昼休みのわずかな時間を再び詩作に充てるのだ。そして、本日の仕事を終えた彼は少しさびれた風情の街を朝と同じく歩いて帰り、家の前で何故か傾いたポストを直して帰宅する。家では恋人が今日の出来事をすべて話すかのような勢い(コレはかなりの誇張表現だがパターソンさんとの対比でそう思えてしまうのだ!)で語るのを聞いたり、彼女が腕に夜をかけた食事を食べ、愛犬ナーヴィンの散歩がてらに行きつけのバーに向かう。これがパターソンさんの一日だ。
とまあ、これを文字にしてしまうと「何が面白いの?」という気持ちになってしまうのだけれども、一週間のほとんどが上記の枠を出ない彼の生活をもっと見たい、ずっと見ていたいという心持にさせてくれる作品なのだな。
何故、こんな変わり映えのない日常を私はずっと見たいと思ったのだろうか。一つにこの作品は変わらない日常を描いている以上に、その中にある変化、パターソンさんの周りの人は、もしかしたらパターソンさん自身も気づかないような小さな変化を描いているのだな。当たり前のような話だが、バスの乗客は毎日違うし、彼に毎朝話しかけてくる同僚の話だって日々変化している。また、恋人が作ってくれる料理だって昨日と同じではないし、行き帰り道も、バーに来るお客さんだって昨日とは同じではないのだ。
そんな日常にある小さな変化、今日という日を昨日とは違う日にしてくれる変化、何か大きな結果に結びつくわけではないそんな小さな変化が、実際には我々の日常を彩っている、そんなことを無意識のうちに感じさせてくれる作品だったなと。

もう一つ、この作品の持つ心地よさのもとになっているであろう部分に触れておきたいと思う。恋人が時おり作ってしまうアヴァンギャルドな料理(日本なら2chで嫁の料理がヤバいスレが立ちそうな勢いだ!)も受け入れるパターソンさんの度量の広さはもちろんのことだが、この町パターソンに住む人たちも優しい人、おおらかな人たちが多いように感じた。その代表例が映画の終盤、あろうことか彼の運転する路線バスが故障してしまい、乗客たちは立ち往生の憂き目にあってしまうシーンだ。私がパターソンさんならば「クレームとか来たらどうしよう」と、想像するだけでも胃が痛くなるような場面なのだが、そんな日常ではあまり起きてほしくないような出来事だが、実際のところは乗客の落ち着いた様子に救われる場面でもあるのだ。もしかしたら、パターソンの人たちにとっては「あのバスが壊れるなんてよくあることだよ」なんて風に思ってるのかもしれないが、ネガティブな気持ちが前に出てきそうな場面での彼らの普通の振る舞いに、パターソンさんも私も、ちょっと救われた思いがした。
この映画のタイトル「パターソン」はもちろん、淡々と日常を過ごすパターソンさんを指し示しているのだと思うが、実はそれだけじゃくパターソンという街の魅力、住んでいる人だったり、ロケーションとしての美しさをも内包した、そんなタイトルなんじゃないかと思う、そんな映画でしたよ。

俺と「ベイビー・ドライバー」

エドガー・ライトの「ベイビー・ドライバー」を見た。元より洋楽好き、それも私の世代よりも一昔前、私が生まれる前の時代の音楽が好きということもあって最高の音楽映画だった訳だが、今回は「音楽と演出最高!」という私にとっては一番グッときたポイントをあえて外した、この映画のストーリーについてちょっと感じたことからまず書いておこうと思う。


この映画、音楽に合わせたキレッキレの演出がとくに印象的な内容であり、その演出と犯罪行為(というよりも脱出劇)の手際の良さに爽快感を感じさせる作風だと思うのだが、意外にも犯罪劇にはあまり似合わない非常に善悪の区別、特にキャラクターの役割分担においてはそれがはっきりついている内容で、ストーリーの中核は「ズレと贖罪」なのかなと思っている。
当たり前だが犯罪行為は悪だ。ただ、多くの映画の中ではその悪の行為を悪だと感じさせない理由付けがなされたり、犯罪行為をスリリングに演出することで善悪よりも成否に焦点を持っていたりする。この作品は序盤こそベイビーがキレッキレの手腕を見せて脱出劇を成功させ、彼にとって運命の人となるべき女性 と出会い、組織から足を洗って真っ当な人生を踏み出す…という流れなのだが、もちろんこの後の彼の人生は順風満帆に行くはずもなく、再び元の道に引きずり戻されてしまう。感覚的にはこの時のベイビーの心性は紛れもない善だと思うのだが、一方でこれまでの行為、悪の行為で得た利益を清算していない、いわば心と体が一致しないとでもいう感じの状態にあるように感じる。一方で、彼の最後の仕事となる強盗劇はこれまとは真逆に感じる、チグハグで行き当たりばったりで泥臭いものになっている。このチグハグさこそが、元々ずれていた彼の人生を修正するために必要だったズレであり、贖罪なんじゃないだろうかと思ったのだ。

さて、その彼の最後となる仕事で選曲したのはオランダのプログレッシブロックバンド、フォーカスの代表曲「Focus Pocus(邦題:悪魔の呪文)」だ。1960年代末期にイギリスで勃興し、その後ヨーロッパ各地に広まったこのプログレッシブロックというムーブメント、その中でも随一と言って良いほどの個性を持っていたのがこのフォーカスだ。何せ、ヴォーカルのはヨーデルまで曲に組み入れてくるのだから、その個性は凄まじいというしかない。この曲でも天才ギタリストであるヤン・アッカーマンの刻む超かっちょいいギターリフの後に続くのは「レイレレ レイレレ レイレレ レイレレ パッパパー」というヨーデルで、もう変という一言しかないのだ。だけれどもカッコよさとは対極にあるように一聴して感じてしまうこの珍妙さが、映画内で彼が正しい道に戻るためのズレを暗示してるように感じて素晴らしい選曲だと感じた。(もちろん、この曲が大好きだという点もおおいにあるのだが。)

映画のラストで彼の人生は真っ当な道、彼の心性とマッチした正しい道に戻るのだが、それに説得力を与えていたのは、裁判や刑務所内での生活ではなく、ヨーデルとギターリフが奏でる泥臭い逃走劇にあるように感じる、そんな作品でしたな。


俺と「歓びのトスカーナ」

好きな映画監督を教えてくださいと言われると、あれもこれも思いついて中々選べないですが、好きなイタリア人監督を教えてくださいと聞かれることがあるのなら、間違いなくこの人をあげるであろう私の大好きなイタリア人監督パオロ・ヴィルズィの最新作「歓びのトスカーナ」が公開されたので、さっそく見てきましたよ。まあ、大好きなイタリア人監督と言いながらも、見たことあるのはイタリア映画祭で上映された「来る日も来る日も」と昨年劇場公開された「人間の値打ち」、そしてこの「歓びのトスカーナ」の三作品だけなのですが、それはそれこれはこれ。
で、実は今年のイタリア映画祭でこの作品も上映されてたのでその時に見ても良かったのですが、諸事情により見れなかったので約2か月ほど首を長くして待ってたわけでしたが、待ってただけのことはあった素晴らしい作品でした。


主人公はベアトリーチェとドナテッラという二人の女性で、物語は彼女たちが精神に障害を抱える療養所で出会うところから始まる。患者なはずなのにまるでこの施設の主かのように振る舞うベアトリーチェと、殻に閉じこもり積極的には外の世界と殆ど交わろうとしないドナテッラは対照的な二人だ。そんな二人の女性があるきっかけで施設から抜け出し、それぞれの目的を胸に秘めながらトスカーナの逃避行を始めるというストーリーだ。
数年前に日本でも劇場公開された「人生ここにあり!」というイタリア映画がある。私がイタリア映画にはまるきっかけになったこの作品は、イタリアで精神病院を廃止することを決めた法律(バザリア法)が施行された当時のイタリアの様子を描いており、登場する障碍者と彼らの周りの人たちのキャラクターがとても愛らしくて、心の底から彼らを応援したくなる作品だったのだが、そんな彼らと比べるとベアトリーチェやドナテッラのキャラクターはどこかとっつきにくいというか、実際に私の身の回りにいたらちょっと距離を置きたくなるような二人だ。実は劇中で彼女たちが起こす問題への対応を職員たちが話し合うのだが、施設内で再び彼女たちを見守ろうとする穏健派とこの施設では対応できないので外へ引き取ってもらおうとする排斥派の二派(実際には黙して語らずの人も多いが)にわかれるのだが、自分がどちらの立ち位置に立つのかと考えたときに、間違いなく排斥派に近いのではないかなと思った。ただ、この映画はそんな人たちを断罪するような作品ではなくて、もっと人間の根源の素晴らしさに触れるような人間賛歌だったのだ。

私の映画の評価の源泉の一つとして共感がある。私もそんなにできてない人間なので、やっぱり自分と同じ境遇だったり、その境遇が理解できるようなキャラクターには共感して「ガンバレ!」とか「良かった」とかのポジティブな感情を抱くし、全然共感できないような輩が映画の中で不幸せな結末を迎えたときに「ザマーミロ!」というカタルシスを得たりもする。その一方で、私が共感できるような良い奴が不幸な結末を迎えることに何かしらのモヤモヤを感じてしまうし、ムカつくやつが幸せな結末を迎えてしまう時のモヤモヤはそれ以上かもしれない。
さて、この映画の結末を見届けたときに私は彼女たちに共感できるような心持になっていたのかと言えば、意外にそうでもなく、多分現実に彼女たちが居たのなら距離を置きたいと思う気持ちは変わっていないと感じたのだ。でも、不思議なことにこれまで見てきた多くの映画の共感できるキャラクターと同じぐらい、ちょっと距離を置きたいと思うこの二人の幸せを心の底から祈ってしまうそんな作品だったのだよ。


自分と共感できる人のことを共感できるのはある意味で自然で当たり前のことだと思うけども、裏を返せば自分が共感できない人の事を捨て去ってしまう世界に生きようとしているのかもしれないのだな。それよりも、この映画が感じさせてくれたような、自分が共感できない人の幸せを祈りたくなるような世界に生きることが、自分の世界を変えるきっかけなるのかもしれない、そんなことをごく自然と感じる素晴らしい作品でした。


俺と「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

 「ダラス・バイヤーズクラブ」のジャン=マルク・バレ監督作でジェイク・ギレンホール主演の「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」を見てきました。映画の大枠は、不慮の事故で突然妻を亡くしてしまう夫の物語で、昨年の「永い言い訳」を思い起こすような内容でしたが、あちらに負けず劣らず素晴らしい作品でした。特に主演のジェイク・ギレンホールは一昨年の「ナイトクローラー」とはベクトルの違う、でもとても印象的な演技を見せてくれました。
 さて、この映画の原題は「Demoliton(破壊)」というタイトルなのですが、本当に映画の中の大事なことが一言でスッと心の中に落ちる素晴らしいタイトルでした。ということで、何故邦題はあんなことになってしまったのかという不平不満…ではなくて、この原題が持つ意味みたいなものをちょっと私なりに解釈してみたいと思います。


 「Demolition(破壊)」この単語の意味だけを見ると非常に不穏というか、物騒なタイトルだ。破壊と言えば例えばゴジラが行う都市破壊のように、我々人間には理解の及ばないコントロール不能なものといったものをイメージしてしまう。もちろん、この映画にの主人公であるジェイク・ギレンホールが演じるデイヴィス・ミッチェルも、一見すると非常に不穏当というか、はたから見ると突然に破壊衝動を起こすコントロール不能な存在に見える。おそらくそれを最も感じているのは彼の義父であり同じく大切なものを喪失してしまった、クリス・クーパー演じるフィル・イーストマンであるのは間違いない。ただ、この映画のデイヴィスの行動を反芻すればするほどに、彼の中の破壊衝動というものは少なくとも彼の中で非常にコントロールされているもののように感じたのだ。

 デイヴィスの破壊衝動はフィルの何気ない一言と彼女の妻の置き土産のような冷蔵庫の故障が発端となる。それが分解だ!
 冷蔵庫から始まり、変な動作を見せるパソコン(あの会社にIT専門の担当者はいないのだろうか…)、会社のトイレのドア、レストランのトイレの照明、果ては新品のエスプレッソマシンまで、とにかくあらゆるものを分解し始める…。ちょっと待て、彼はありとあらゆるものを分解してるのだろうか?違うな。彼の中には多分分解するものに対する明確なルールがある。劇中では明示されていないが、故障しているもの(もしくはしかけているモノ)だ。もちろん明確に当てはまらないものもあるが、それも彼または彼ら夫婦の所有物だ。決して突然店にあるジュークボックスの構造を調べたりはしていない。
 そしてもう一つ大事なポイントがある。フィルの助言は治すための分解だったはずだ。しかし、彼はモノを直すのではなく、分解し、一つ一つの部品をきれいに並べてそのままにしている。フィル自身は意図していたかどうかは別にして、普通なら人生の中で大きな部分を占めていたモノの損失を埋めるため、元通りの生活を送るためのアドバイスだったハズだ。しかし、フィルの興味は分解そのものに向いていて、その先にある直すという行為に興味を示そうとしてない。
 思えば我々の生活は多くの機械に囲まれている。トイレのドアのように非常に単純な構造のものもあれば、パソコンのように分解したからと言ってどうとなるものでもない複雑な構造のモノもある。話題はずれるが、デイヴィスのパソコンの故障は多分ソフトに起因していて、分解しても解決する類のものではないと思う。が、彼にとってはそんなのはどうでもいいのだ。もっと彼にとって重要なもの、それは彼にとっても理解不能なある種の感情、シンプルに言うと妻が死んでしまったのに喪失感を感じない自分自身に、何らかの故障があるのではないか、そんな感情と目の前にあるモノの故障がリンクして分解衝動を抑えきれないのだと私には感じた。いつか、分解の果てに、彼の感情に対する答えがあると心の奥底で感じ取ってるかのように…。
 だが、彼の破壊衝動はこの後、違った展開を見せるのだ。

 彼の破壊衝動の次のステップは文字通りの破壊だ。
 手っ取り早く分かり易いのは、金を払ってでもやりたかった住居解体の仕事だ。高級ブランドのスーツを着て、私には想像もつかないほどの高額な資金を運用していたかつての生活と異なり、作業着を着てハンマーを振りかざすその仕事。まさに破壊のイメージそのものだと言っていいだろう。また、毎朝ルーティンワークのように同じ車両に乗っていた男性に、突然自分の本当の仕事を打ち明ける。これもある種の人間関係の破壊行為だと言っていいように思う。そして、彼の行う破壊衝動の中で唯一と言っていい、私の中でコントロールされていないと定義している行為が列車の緊急停止レバーを引く行為だ。ただ、それにしても破壊行為の持つネガティブなイメージ、暴力だとか悪意というものからは程遠い―少なくとも彼の中にレバーを引くことで誰かを傷つけるような感情があったとは思えない―むしろ、自身の整理のつかない感情、コントロールできていない何かを押さえつけるために、レバーを引いた風にも思える。
 ただ、この文字通りの破壊衝動も分解衝動と同じく、ほとんどの行動が少なくとも彼の中ではコントロールされているように感じるのだ。非常に恥ずかしい話だが、いい年になった私でも非常にむしゃくしゃした時に何か近くのモノにあたりたくなる時がある。そして、衝動に駆られて思うがままに行動した後で、何らかの後悔をしてしまう。これが我々のイメージする破壊衝動の最も身近な形だと思う。ただ、彼の破壊衝動はそんな衝動とは一線を画す、非常にコントロールされたものだ。家の解体は初めこそ突飛なスーツ姿だが、その後はきちんと作業着を着て、道具をそろえ、ルールを守って解体してる姿がありありと想像できる。彼の行う行為決して無秩序な破壊ではないのだ。

 ここまで物語が進んで、ふと思うことがある。果たして彼の今は、妻が生きていた頃の彼と違っているのだろうか?一見すると破滅的に見えそうな彼だが、私は行為のベクトルの向きが変わっただけで、実は彼の本質に変化はほとんど生じてないんじゃないかと思うのだ。物語の中盤で出会うナオミ・ワッツ演じるカレンとその息子クリスの二人で暮らす一家。カレンは薬が手放せない女性であり、一方のクリスは一見すると破壊的な衝動の持ち主だ。ただ、デイヴィスが自らの傷をいやすためにドラッグに溺れるかと言えばNOであるし、クリスの破壊衝動を満たすために一緒に銃を撃ちに行った時も、きっちり防弾チョッキの上から彼を打つよう指示している。彼自身がコントロールできない何かに身を預けているようなそんなわけではないのだ。
 昔の彼は、恐らくルーチン的な生活、毎朝同じ時間に起き、シャワーを浴び、朝食を取り、仕事に行き、家に帰り、夫婦でベットを共にする…etcと彼のコントロールできる範囲の行動をとっていたことは想像に難くない。だからこそ、妻の冷蔵庫を直してというイレギュラーなお願いが彼の心に強く残ったのだろう。そして、その一方で、彼のそんな代り映えのしない行動に、彼女は彼の愛が冷めていると感じたのだろう。

 この物語で一番の破壊は何だろうか。数々の機械の分解?デイヴィスの住む家の破壊?それとも義理の両親との関係の破壊?私はこの映画の一番の破壊行為は彼の妻ジュリアが行った行動、俗にいう不貞行為が、この映画の中で一番大きな、そして唯一デイヴィスの生き方に変化を与えた破壊行為なんじゃないかと思った。
 常に自分の人生をコントロールしてきた彼、いや、もしかしたらジュリアと出会った頃の彼は、彼女と愛し合っていた頃の彼はそうではないかもしれないが、そんな彼の制御の枠外で起きていた出来事、そして彼自身が全く気づきもしなかったその出来事が、彼にとっての人生を変える大きな破壊なのだ。彼自身が妻の不貞で怒りではなく、自身への失望、そして妻への愛に気付くきっかけとなるのは、人生の皮肉以外の何物でもないと思った。しかし、それほど自分自身のことも、自分の身近な他人のことも良く分からないものなのだな。そして、デイヴィスと同じようにこの出来事に衝撃を受ける人物が彼女の父であるフィルだったという事実は、彼がデイヴィスと同じような人物であることを示唆してるようにも思えた。


 この映画のラストシーンはクリスがマンション破壊をデイヴィスに見せる所から始まる。コントロールされた破壊の様子はまさに以前のデイヴィスを象徴していると言っていいと思う。しかし、今の彼、妻の破壊衝動によって変化した彼が望んだのは破壊ではなく再生だったのだな。
 多くの人の人生の中には一見すると破壊にしか見えない行動や行為があるように思う。ただ、破壊の裏にあるその人の思いが、実は人生の中の大きな変化をもたらすきっかけなのかもしれない…そんなことを思う映画でした。

俺と「ロボット・ソリのQ&A」

映画祭のレイトショー的な上映時間なのにQ&Aしてサイン会までしてくれた「ロボット・ソリ」のイ・ホジェ監督に敬意を表して、相変わらずメモすら取っていないその内容を、忘れる前にざっくりした範囲で書いときます。(間違いとかは大目に見てね)

・監督挨拶
「この作品は今日が日本で初上映されるということで、日本で初めてこの作品を見る人たちにあえて非常に光栄です。楽しんでいただけたでしょうか?(盛大な拍手)ありがとうございます。
この映画は韓国では去年公開されて、私も久しぶりに皆さんと一緒に鑑賞したのですが、個人的には非常に満足してる作品ですが、ああもうちょっとこうすればよかったな…なんて思いながら見てました。」


・SF的な要素と親子の愛情という非常に身近な要素が融合した作品だなと感じたのですが、韓国での反応はどうだったのでしょうか?
「興行的には同時期に大ヒット作品があったりしてなかなか思うようにはいかなかった面もありますが、何度も見るほど大好きだという方もいてくれてとてもうれしいです。」


・劇中で登場するソリの造形はR2D2に非常に似てるなと思いましたが、後半はちょっとETのようにも感じました。このデザインについては監督がイメージされていたのでしょうか?
「ソリのデザインはデザイナーの方にお願いしたのですが、私からのデザイン的なお願いはピクサーのロボット(おそらくウォーリー)には似せないで!というものでしたが、出来上がりはR2D2にそっくりになっちゃいましたね…。ただ、モチーフとしては今や街角に多くみられる監視カメラをモチーフにしています。
元々この作品の脚本を書き始めた段階では、ソリが多くの言葉から学習していくという風なストーリーを考えていました。ただ、脚本を書いていくうちに映画のテーマが徐々に記憶、ある人にとっては忘れたいが忘れることのできない哀しい記憶にシフトしていき、最終的にこの映画の形となりました。劇中で登場する事件はモチーフの事件(大邱地下鉄放火事件)があります。この事件は多くの犠牲者を出してしまいましたが、もっとしっかりした対策、対応をしていればこのような大きな被害は出ていなかったと言われています。しかし、韓国ではその後もこの事故同様にセウォル号事件のような、防げるはずだった大きな事件が起きています。
我々がその事件の哀しい記憶をきちんと風化させずに受け止めていれば、そんな悲しい事件を防げたはず。そんな思いもこの映画に込めています。」


・登場した時は無機質に感じたソリが後半では非常に愛おしい存在に変化していったのですが、撮影中にもそのような変化はあったのでしょうか?
「まさしく、我々も撮影時に同じような思いを感じていました。主演のイ・ソンミンさんは多くの時間を無機質なロボットと一緒に過ごすことになり、ちょっと寒い思いをしていたかもしれませんが、現場ではソリのオペレーターの二人のことを”ソリのおじさん”と呼んだりして、皆がソリに愛着を持った空気の中で仕事をしていました。」


その後のサイン会のサインではソリをわざわざ書いてくれたりと、非常にお茶目でファンサービスに溢れつつも、社会に対するしっかりした視線も併せ持つ監督さんだな(これはバティンテロのヴェルガラ監督も同じ)と思いました。