俺と「イット・カムズ・アット・ナイト」

最近A24のホラー映画「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」「へレディタリー/継承」「イット・カムズ・アット・ナイト」を立て続けに見てどれもなかなか印象的だったのですが、特に「イット・カムズ・アット・ナイト」が終わった後にじわじわと味わいが増していく作品でとても良かったという話を、この下につらつらとネタバレ(「ヘレディタリー」や「クワイエット・プレイス」を含む)込みで思ったことを書いときます。


世界中で謎の病原菌が蔓延する中、感染を防ぐために人里離れた森の中で家族と暮らすポール(ジョエル・エドガートン)は、病気が発症してしまった自身の義父を手にかけてまで必死に感染から自身と家族を守ろうとする日々を送っていた。
そんなある日、ポールは自身の家に押し入ろうとした男、トラヴィスを捕まえます、様々なやり取りを経て彼と彼の家族が感染していないと分かったポールは、共に暮らし始めるのだが…。

物語のあらすじはこんな感じで、まさに終末モノのド直球といった世界観の映画ですが、人間関係は主人公ポール一家とトラヴィス一家のみに近い非常に小さな世界でのお話なので、本年に公開された「クワイエット・プレイス」なんかを思い起こしそうな内容でもありましたが、向こうは異星人侵略モノをベースに置いて恐怖となる対象が分かりやすい一方で、こちらは”ソレ”が見えないこととミニマムな世界観が相まって、怖さがわかりにくい=ホラー映画として退屈という側面もあるというのは事実で、実際私も上映中少しウトウトしてしまったりしたのでした。
ただ、「よく考えると宇宙人よりも怖いのは釘だよな!」と言いたくなるような少々強引な展開が持ち味の「クワイエット・プレイス」の怖さや緊張感は慣れて薄れていくのに対して、「イット・カムズ・アット・ナイト」は退屈だった見えないソレの怖さよりも別の怖さが後味として残っていく作品でとても良いのですよ。

ちょっと話題はずれますが、今年みたA24の映画である「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」は不慮の事故を遂げた男が幽霊となって妻を見守るという話で、シーツ被っただけなある種古典的な幽霊の外見が非常に印象的な作品、「へレディタリー/継承」は家族の周りで起きる事故や怪奇現象の裏には一家の秘密が…という内容で、見終わった後に「ローズマリーの赤ちゃん」を強く思い起こす内容の作品でした。で、この「イット・カムズ・アット・ナイト」は終末観+立てこもり+小さな人間関係という三点から個人的には「ナイト・オブ・リビングデッド」のイメージが強い作品でした。こういう風に三作品ともある種の古典と言っていい作品や設定を取り入れた作品なのと、テーマとしてそれぞれ家族や恋人といった小さな人間関係が描かれるのが非常に印象に残る共通点でもありました。



話を「イット・カムズ〜」に戻すと、この映画でも...というよりもこの三作品の中でも群を抜いても言ってといいほどに、この映画での家族の描かれは印象的なのですよ。映画の主人公であるポールは”家族のために”というかなりハッキリした彼の中の正義にもとづいて行動しており、冒頭では病に感染してしまった自身の義父にすら手にかけてしまいます。ただ、これも病に罹っていない妻や息子のためであることは容易に想像できるし、そもそも彼らが人里離れた森の中で他人との関係を断って生きているのも家族を病原体に感染させないためだと思う。ただその一方で、彼らの家に入りこもうとしたトラヴィスを許し彼の家族と共同生活を始めるのも、トラヴィス一家と協力することでよりよい生活を送れるだろうという判断があったりして、単純な孤立主義者だというわけでもないのですな。ただ、物語は後半に起きる出来事をきっかけにいとも簡単に協力関係がくずれていき、「実は最も怖いのは病気よりも人間だったのだ!」的な、ある種終末モノ・ゾンビ映画のお約束な内容が提示されるのですが、それ以上に家族関係―というか自分と他者との線引き―の危うさが印象に残るのです。

その後、ポールは遂に自身の息子にすら手をかけてしまい、彼の妻と机を挟んで対峙したままこの物語に幕が下ります。彼の正義のよりどころであったはずの家族に手をかけてしまったという事実を映画のラストに持ってくるこの構成は、実は冒頭でも家族に手をかけていた事実と対になって強いインパクトを残します。
その衝撃は、冒頭のポールの行為にある種の正しさを感じていたハズの私の倫理観をも揺さぶり、大切だった家族や仲間が実はふとしたきっかけで大切じゃなくなってしまうという危うさを心に植え付ける非常にうすら寒いラストシーンであり、劇中のラストシーンの先にあるモノを容易に想像させてしまう印象的なラストシーンでした。

悪魔や幽霊、あと音を立てるとこちらを襲ってくる異星人はこの世界にいるかどうか私にはわからないけども、この映画で描かれた恐怖は私の生きるこの世界にも、何より私の中にもあるモノだなと実感できる映画でしたよ。

俺と「きみの鳥はうたえる」の舞台挨拶

先週土曜日に大阪であった「きみの鳥はうたえる」の舞台挨拶付き上映に行ってきました。
舞台挨拶と言いつつもほとんどが三宅監督と観客とのQ&A形式で、映画を見ていて引っかかった部分や、監督自身のいろんな背景や考え方が聞けて良かったので、覚えてる範囲で記録しておこうという内容です。
(と言っても、当日メモとか取ってたわけでもなく、舞台挨拶から1週間近くたってるので記憶忘れ、記憶違いがあるかもですが、そこらへんはご容赦を…)


・まず監督からひとこと
もともと、函館にあるシネマアイリスという映画館が、映画館が映画を作ろうということを企画して、函館出身の作家佐藤泰志の作品を函館を舞台に映画化した作品、「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」が作られていました。本作は、それら三作と同じくシネマアイリの製作、佐藤泰志作品が原作という作品なんですが、映画館が作った映画をこんなに多くのお客さんが、今日わざわざ映画館まで足を運んで見てくれて、ほんとにうれしい気持ちでいっぱいです。


・監督の好きな映画を教えてください。
好きな映画、というかデンゼル・ワシントンが大好きな俳優でして、彼の出演作「デジャブ」や「アンストッパブル」が大好きですね。「デジャブ」はあまりな内容に触れられない映画なので、これはもう見てもらうとして、「アンストッパブル」はデンゼル・ワシントンが暴走してる列車を止めようと頑張る映画で、ホントにそれだけなんですが無茶苦茶面白い映画ですね。
あと、他に好きな映画としては、現場でスタッフとの会話でもよく話題に上って作品でもあるんですが、リチャード・リンクレイターの作品ですね。「ビフォア・〜」シリーズもいいですし、アカデミー賞にノミネートされた「6才のボクが、大人になるまで。」や、最近公開された「30年目の同窓会」もとても良かったですね。


・映画を見ていて主演の三人(柄本佑染谷将太石橋静河)が、当て書きのように感じるイメージ通りという感じの役柄に思えましたが、初めからこの三人を想定した脚本を書いたのでしょうか。
僕役の柄本佑と静雄役の染谷将太は、僕自身が「この二人と仕事したい」という気持ちもあり、かなりイメージしながら脚本を書いていて、実際に希望通りのキャスティングとなったのですが、もろもろの事情で一時製作が中断して、三年ほど期間があいてしましました。しかし、結果として石橋静河という素晴らしい女優さんがこの映画に参加してくれることになったので、良い方向になったなと思います。


・映画の内容からこのタイトルをイメージしにくかったのですが、なぜこのタイトルにしたか教えてください。
先ほども説明させてもらいましたが、この映画は佐藤泰志の小説を原作にしていて、その小説のタイトルが「きみの鳥はうたえる」なんです。
ただ、原作にはきちんとそのタイトルの由来である、ビートルズのアルバム「リボルバー」に収録されている曲「And Your Bird Can Sing」が出てくる場面があり、それは主人公の僕と静雄の二人が意気投合し、部屋でレコードを聴こうとするけど、プレイヤーがなくてアカペラで歌うというシーンなんです。映画でもそのシーンを描くことを考えていたのですが、なんせビートルズの楽曲はとにかく高い、カバーでもかなりお金がいるということで結局このシーンは無しになりました。


・今後どんな映画を撮りたいですか。
こういうジャンルの映画を撮りたいというよりも、とにかく今、同じ時代を生きている素晴らしい役者たちを映像として残していきたいという思いが強くあります。
あと全然話は変わりますが、ZOZOTOWNの前澤社長がこないだ世界で初めて月に行くってニュースがあったと思いますが、彼が同行させるアーティストの一人として作品を撮ってみたかったですね。


・音楽がとても印象的だったので、音楽を担当したアーティストについて教えてください。
本作の音楽を担当してくれた Hi'Spec(ハイスペック)はDJ、そしてトラックメイカーとしても活躍中のアーティストで、劇中でもクラブのシーンにDJ OMSB(オムスビ)と一緒に登場してプレイしてくれています。彼らはSIMI LAB(シミラボ)というユニットのメンバーで、以前、僕自身が彼らのようなヒップホップアーティストを題材にした「THE COCKPIT」というドキュメンタリー映画を製作しており、今回、彼に音楽を担当してもらったのもそのような繋がりからです。
ちなみに、クラブのシーンではほんとにテキーラを飲んでましたね。


・函館の舞台に撮影した映画ですが、こだわった点などはありますか。
有名な観光地が出てくるような映画じゃなくて、それこそ函館じゃなくてもどこにでもありそうな街の情景の中で、どこにでもいそうな若者たちの物語にしたいという思いがあり、冒頭こそ函館山や函館の夜景の様子はちょっと映りますが、それ以外のシーンはなるべく普通の町の様子を映す作品にしています。


コンビニの会計シーンはアドリブのような掛け合いがとても印象的でしたが、どのように演出されたのでしょうか。
他の劇場で行った舞台挨拶でも、このシーンを含めて非常にアドリブだと感じる作品だという質問を受けましたね。本作は基本的にはシーンを撮影前に脚本を渡して、そのシーンのイメージを固めたうえで撮影に入ります。そこで、脚本以外の内容を現場でメモとして役者陣に渡したりもして、より内容を深めていくという形で演出してました。そこで、役者陣からこういう風にしたほうがいいんじゃないか、というアイデアも出たりして、何回か繰り返して撮っていく中でシーンの内容が固まっていくという作品でした。
コンビニのシーンも非常にアドリブのように感じるシーンですが、あのシーンも何回もリハーサルしたりして、喋る内容もいろいろ考えて出来上がっていったシーンなんですよ。


・佐知子が歌うあの曲がとても印象的だったが、あのセレクトは誰のものなんでしょうか。
佐知子が歌うあの曲はこちらでセレクトして石橋さんに歌ってもらいました。見てもらうとわかる通り、石橋さんの歌がとても素晴らしくて、とてもいいシーンになったと思います。



と、覚えている範囲ではこんな感じですね。間違ってたらスミマセン。

俺と「タリーと私の秘密の時間」

「タリーと秘密の時間」を見てきましたよ。ジェイソン・ライトマン監督&シャーリーズ・セロン主演という「ヤング≒アダルト」と同じ組み合わせの作品ですが、本作もとても良かったなと思いましたね。
あちらの主人公メイビスはタイトル通りどこかで大人になりきれない年齢的には大人の女性。世間的に言えば”イタい”女性のお話で、私自身もその”イタさ”に身に覚えがあるだけに、どこかである種の共感を覚えつつ鑑賞したのですが、本作で彼女が演じる主人公マーロはそんな”イタさ”とは無縁に見える女性。年齢こそ私にまあまあ近い(といっても彼女よりはちょっと若いですが)だけで、性別も状況も全く正反対な彼女。けれども、本作は共感とは違うものの、ある種の気づきを感じさせてくれる作品でした。

主人公のマーロは愛する夫と二人の子供、そして間もなく生まれてくるもう一人の子供がお腹の中にいるという、私がその大変さ、辛さをどれだけ想像しようともその一端にもかすることのできない状況におかれており、日常の様々な出来事に疲弊しきっている姿が描かれます。彼女のそんな姿を見ているだけで、私が思っていることが彼女の大変さの一端に過ぎないということを分かっていつつも、この人スゲェなという感情(もちろん、体型を含めたシャリーズ・セロン本人へのスゲェという感情も含まれるが)を抱くのでした。ただ、この映画が私の琴線に触れた部分は、この母という存在の凄さとはもう少し違う部分じゃないかと思ったりしているのです。
単純な育児あるあるというジャンルの映画で見れば、未婚独身子無し男性の私がマーロのことを”あるある”と思う…訳もなく、上述したように畏敬の念でただただ彼女の行動を見てたりしたし、マーロの夫であるクレイグに、女性から見れば甘い!と言われそうですが、それなりにいい夫なんじゃないかなと思ったりして、全体的に明確な悪(ダメな人)というのが設定されてない作品なのも、もちろん問題提起的な要素もあるけど、夫婦や育児以上のもう少し踏み込んだ部分が、(少なくとも私にとっては)本質なのかと思った訳です。
子供の出産を間近に控えたある日、マーロは兄から出産祝いとしてナイトシッターを雇うことを提案され、初めこそ他人に家事を任せたくないと思うマーロはナイトシッターに乗り気になれなかったのですが、子供が生まれ、これまでも限界だったのにそれ以上の限界に陥ることになった彼女は、遂にナイトシッターとしてタリーという若い女性を雇うのですが…というストーリーです。

<ここから思いっきりネタバレ>

この映画、物語の後半で「二重螺旋の恋人」もびっくりな衝撃の展開を迎えます。ちなみに、引き合いに出したのが何で「二重螺旋の恋人」かというと、たまたま同じ日に見ただけというだけですが…。
話を本題に戻すと、この映画で後半に明かされる秘密とは、マーロが頼っていたナイトシッターのタリーが実は彼女の生んだ幻想で、ナイトシッターに頼っていた部分も彼女が”理想の自分”であるためにこなしていたというものでした。そのことは、この劇中にあった大小のひっかかり、家族のだれもタリーの存在に気づいていないという点や、タリーがクレイグと一夜を共にし、それをマーロが応援するというこちらが”えっ”と思うシーンを綺麗につなげていくもので、胸のつっかえがきれいに解消されていく展開がとても良かったです。
ただ、そんなストーリー展開以上に私の心に残ったのは、マーロ自身が自分はそう思っていなかったけれどそうでなかったという面でした。マーロ自身は問題はない…というよりも”そもそもこういうもの”という諦観があったように見受けられるマーロとクレイグの関係や子供たちとの関係、それに時間とともに変化が生じてしまった過去の親友との関係もそうですが、最も印象的だったのは彼女が自身を偽っていた、”あんなに大人な女性でも”容易に人生の落とし穴に落ちてしまうことでした。
ヤング≒アダルト」での主人公の痛さは非常にわかりやすく、だからこそ私にとっても共感しやすいものでしたが、本作も同じく人生の難しさを扱いつつも、共感できるのかは一見するとわかりにくい作品かもしれません。ただ、この映画の引っ掛かりを紐解いていくと、ジェイソン・ライトマンが持っている本質は「ヤング≒アダルト」の時と変わっていないように、私には思える作品でしたね。


あと、学校で息子の癇癪が爆発しちゃったときに”木になる”と言い始めた教師、あの人はホントに最高でしたね。ああいう脇役をサラッと出してくるあたりが、もう一つのこの映画の良さだと思いますよ!。

俺と「キスできる餃子」

 通勤や出張とかでJRに乗っているとたまに駅の広告や電車内の広告で見るのが「本物の出会い栃木」というキャチコピーですが、「はたして栃木に行けば本物に出会えるのか…!?」という疑問を解き明かすため、私は栃木行の電車に飛び乗ったのであった…。ちなみに、東京から宇都宮まで行くときに、大宮まで在来線で行ってそこから新幹線に乗り換えても時間帯によっては到着時間はさほど変わらないことを知りました。



 奇しくもその日、6月15日は栃木県民の日であり、宇都宮にある老舗映画館ヒカリ座では1100円で映画が見れる太っ腹な日ということで、必然的に映画を見に行くことになるのですが、なんと偶然にもその日が宇都宮を舞台にした映画「キスできる餃子」の栃木県先行上映開始日ということで、その「キスできる餃子」を見てきたのです。
 映画自体は本物の…いや、普通に想定内のダメ映画で、とりあえず気づいたところを箇条書きに…

  • 地元ロケにこだわりすぎて、設定上じゃない場所なのに、あからさまな栃木描写が…
  • わざわざ一般人入れて大規模ロケしてるのに、使われてる内容は有名人に絡む迷惑な一般人…
  • 娘のコンサートに行ったはずなのに無かったことになる娘の存在
  • 棒読み率高し
  • お金がないと言いながらバーで飲み食いとか…
  • というか、あの店どうやって経営してるのかと思うほどの閑古鳥
  • 大体のシーンがセリフで説明される…
  • そのくせ、ポン太(一応主要キャラの一人)がニラ農家だということをさも当然のようにセリフに入れてくる
  • 最終的に餃子の味のイメージが全くわかないキスできる餃子
  • クライマックスがヒカリ座の隣(オリオンスクエア)


 これを全国公開してしまうのか…凄いな…と思ったりましたが、映画見た後に餃子食べたくなったのと、映画の真似して餃子食したところはよかったんじゃないかと思います。でも、別に宇都宮に思い入れのある人とか、出ているキャストの熱烈なファン以外は見なくてもいいのでは…、と思うような内容でしたよ。
 ということで栃木にあった本物とは、「ふつうにみるとダメ映画でも、地元が出てるだけでイヤー面白かったねとにこやかに劇場を後にしていく宇都宮在住の方本物の地元愛」でしたね!(上手く〆たつもり)

俺と「殺人者の記憶法:新しい記憶」

 「殺人者の記憶法」(以下、オリジナル)と「殺人者の記憶法:新しい記憶」(以下、新しい記憶)見てきました。ここ数年の韓国映画よろしく一筋縄ではいかない内容ながら、笑いあり、親子の絆ありと非常にエンタメとして完成度高い作品だと感じたので、そりゃ新しい記憶の方も見に行きますわなと。その新しい記憶の方はオリジナルが118分なのに対して128分と、10分時間が延びていますが、オリジナルに10分追加という感じではなくて序盤のあのシーン(後述します)やこのシーンがカットされていて、オリジナルとはちょっと違った印象の作品になるように意図的な追加・編集したところが見て取れる作品でした。
 映画としてはオリジナルの方が全然好きで、新しい記憶の方はオリジナルで不明だった部分の真相が明らかに…!というよりも、英題のサブタイトルにあるアナザーストーリーという内容が非常にしっくりくる作品になっているように感じましたが、せっかく両作とも見たということで、思い出せる範囲のオリジナル版との違いを中心にまとめた、見れない人も安心(かもしれない)の思いっきりネタバレした感想です。(ちなみに中盤でちょっと記憶が飛んでしまったけど、ソコに多分変更点はないはず…。)

・物語の導入
 オリジナル版ではトンネル出たところで彼が回想をし始めて→警察署のシーンにという展開ですが、新しい記憶では逮捕後に精神病院で検事の取り調べを受けているシーンが挿入されて、新キャラである検事からの追及で主人公ビョンスが過去を回想していくという流れで物語が始まります。つまり、ここで彼が既に殺人犯だということが明らかになっている結末が明示されているので、オリジナルを見た人向けの回想劇(見た人=検事と置き換えても良いかもしれません)と言っても良い作品でだと思ったので、当たり前ですがオリジナル未見の人にはちょっとおススメできない作品だと思いました。

・ビョンスとウンヒ
 物語として一番大きな変更があったと感じるのがビョンスとその娘ウンヒの関係で、この二人の絆を示唆するシーンが新しい記憶の方ではかなりカットされています。特に印象的だったのは、何故ビョンスがレコーダーを使っているのかということを示すシーンや、ウンヒが父に肉まんを差し入れに行くシーンなど、序盤で特に印象的なシーンがカットされているので、オリジナルと違って家族の絆を忘れまいと病と殺人鬼と戦う父親という印象は受けない感じになっています。この他にも中盤以降でもビョンスとウンヒの絆を示す内容は細かくカットされているので、それがラストの結末の違いに響いてくるように感じましたね。

・ミン・テジュの仕事
 オリジナルでは警察官としてのイメージが非常に薄いミン・テジュでしたが、新しい記憶では町の賭博場に乗り込み事件解決の一端を担うというシーンが追加されていて、このシーンの中では自分よりも大きな屈強な男を倒し、賭場に参加してた女性を暴力的に扱っています。
 オリジナルでは絆の強い父娘に突然現れた殺人鬼という役回りで、父と娘の絆が強いから彼が殺人鬼だという部分に説得力が非常に出る(明確な描写がほぼないのに!)のですが、新しい記憶でその部分をあえてカットしているために、彼の殺人犯としてのイメージに説得力を加えるためにこのシーンを追加したのかなという印象を受けたシーンでした。

・クライマックスの後
 とまあ、ここまではどちらかというと映画を見終わった後に忘れてしまうかもしれない小さな変更点でしたが,この作品がオリジナルと決定的に違うのは、森の家でのバトルが決着した後からの描写にあります。
 オリジナルでは、警察に逮捕された彼のその後の様子、アルツハイマーが進行しながらも家族に愛された彼の様子が描かれてハッピーエンド…と思いきや、え?となるラストを迎えます。ここでの重要なポイントは、ラスト迎えて彼のあの記憶が正しいものなのか彼の妄想だったのか明確な結論が与えられないため、見てるこちらは去年の韓国映画哭声/コクソン」を見た時のような不安定な気持ちに包まれるわけですが、新しい記憶ではその部分がかなり明確に描かれるのですよ。(だから個人的にはパラレルなストーリーだと思う訳ですが…)

・新しいラスト
 ということで思いっきりなネタバレになりますが、新しいラストではこの小さな街で起こった全ての殺人事件はキム・ビョンスの仕業だという風に明確に描かれます。20代の女性連続殺人事件も、詩の教室でビョンスに近づいてきたあの女性の死も、そしてなんと親友だったオ・ダルス演じるアン・ビョンマン警察署長の死さえも彼の仕業なのです。
 特に印象的なのは、クライマックスの殺人鬼ミン・テジュの頭が…となっているシーンも実はビョンスの妄想で、アルツハイマーが進んだ彼の頭部レントゲン写真が全く同じ形をしていたという新たに示される事実でして、これらが明確に描かれることで、オリジナルとは180度異なるイメージ、恐るべき殺人犯キム・ビョンスの姿が浮き上がってくるのです。
 そのために、オリジナル版であったウンヒが病院へお見舞いするシーンも無かったことになっており、逆にウンヒは衝撃的な事件の内容を目撃してしまったために、何も語れない失語症になってしまったということが検事の口から語られます。あと、ミン・テジュは普通にイイ人でかわいそうな事件の被害者の一人というオチでした。

・空白の時間
 オリジナルでは、ビョンスのアルツハイマーの症状が進んだ空白の時間は、少々呆けた好々爺のおじいちゃんが現れるという描写が印象的なのですが、新しい記憶ではこの部分に大きな仕掛けがあったことを示唆している内容になっています。
 その内容は、ビョンスの記憶が薄れる空白の時間は殺人鬼の人格が現れるという設定で、だからこそ、彼はミン・テジュが殺人犯だというイメージに囚われてしまい(もしくは確信犯的にすり替えていて)自身の犯した犯罪を認識していないという描写を生んだのだと説明されるのです。ちなみに、その人格が現れる時にはある特徴が登場するという事も描かれて、映画のラストシーンである彼が冬の線路の上に佇む様子はその特徴が明示されているので、殺人鬼キム・ビョンスが再び起こすこれからの事件を予感させるという、オリジナルとは異なるうすら寒いラストに仕上がっています。

・描かれなかった事件
 さて、韓国映画といえば彼と言いたくなるぐらい様々なジャンルの映画にいいキャラクターとして出まくっているオ・ダルスですが、彼が演じるアン・ビョンマン署長がタバコをやめるきっかけとなったタバコ屋の看板娘の事件については、オリジナルでも新しい記憶でも明確に誰がその犯人だという描写はありません。しかし、新しい記憶では彼が過去の事件をフラッシュバックする際に、これまで描かれない事件が一瞬登場します。
 登場する事件は、暴力亭主→成金女性→浮浪児の酔いどれボス→???→詩の教室の派手なおばちゃんで、この???の部分が恐らくタバコ屋の娘なのではないかなと思いました。


 はい、ということで映画の中盤でちょっと記憶が飛んだり、一部記憶違いの内容もあるかもしれませんがオリジナルと新しい記憶の違いは大体こんな感じの内容でした。冒頭にも書いたように私的に映画としての評価はオリジナルの方が断然面白いと思っているのでオリジナルを強くおススメしますが、大部分の内容が変わっていないのにイメージが全く違う作品になっているので、オリジナルが気に入って違う結末も見たいという人向けの内容かなと。通常版じゃなくて豪華版にもう一枚このDVDがついてくるそんな感じの内容だと思いましたね。


 全くの余談ですが、中盤で出てくる詩の先生が「グッチ裕三っぽいな…」とオリジナル見てる時に思ったのですが、新しい記憶見るまではそのことを全く忘れていて、同じシーンで全く同じことをまた思ったので、実は私にも隠れた殺人者の人格があるのかもしれません。(顔面ヒクヒク)

俺と「2017年の映画」

 振り返ってみると実は去年分をやってない!という事実に気付いたりしましたが、まあ、それはそれ、コレはコレということで2017年の映画を振り返っていきましょう。

・劇場鑑賞作品数
 新作映画:177本(2016年180本)
 その他映画:26本(2016年15本)
  計:203本(2016年195本)

・劇場鑑賞回数
 新作映画:178回(2016年181回)
 その他映画:27回(昨年16回)
  計:205回(2016年197回)

 ここ2015年、2016年と200本を下回るペースでの鑑賞でしたが、3年ぶりの200本を超えとなりました。正直、今年の後半は色々忙しくてこんなに見てるつもりはなかったハズなのですが、何が起こっていたというのか…。
 まあ、そんなことは置いておいて今年はさっくりとベスト10の発表から。

1.「SING/シング」
2.「春の夢」
3.「メッセージ」
4.「チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜」
5.「パターソン」
6.「歓びのトスカーナ
7.「女神の見えざる手
8.「勝手にふるえてろ
9.「セールスマン」 
10.「ドラゴン×マッハ!」


 振り返ってみると今年は「シング」が良かった、とても良かったなと。ベタすぎるあぶれ者たちのサクセスストーリーを歌に乗せて送る作品だけども、そのシンプルさがとても私の波長と合っていたのもそうだし、動物らしさを全開にしたギャグも楽しかった。そして何よりも歌が素晴らしかったなと思う訳で、あっ、字幕と吹き替え両方で見ましたがどちらも最高でしたね。まあ、去年もベストは「シング・ストリート」だったし、そういうことです。
 こんな調子でダラダラ一本一本短評も書いていってもいいのですが、総評というか反省というかいくつか思ったこと徒然と。


・幅の狭まり
 年間200本近く見てると、ちょっとでもアンテナにひっかる作品は見る的な鑑賞スタイルになる訳ですが、今年は例年だったら引っかかっていたジャンルや過去作の評判が良かったから見に行ってみようかという監督作品で響かなかったものが今年は多かったなと。じゃあそれが面白くないかと言えば、逆に周りの評判は良かったりするのも多くて、どちらかというと自分の興味の幅が狭くなったのかと感じた一年でしたね。そういう意味で考えると、「チア☆ダン」なんかは数少ない引っかかった作品だったので、非常に印象的だった作品だと思います。
 そうなってしまった一端に、結構映画を見てる時に自分で枠みたいなのを作りながら見てるなと。例えば次はこういう展開になるんじゃないかとか、このキャラはこういう役回りだなといったことをあれこれ考えながらみるので、ある種の答え合わせ的な映画の見方をしてる時があって、正直良くない、ストレートに言うと面白くない映画の見方だと思う訳ですが、もうクセみたいになっていて、これが映画の幅を狭めてる一端になってるんじゃないかなと思ったりしましたね。来年はあんまり小難しいこと考えずに映画見れればいいなと思ったりしますが、まあムリだろうな…。


・フィリピンとイタリア
 大阪アジアン映画祭では今年も色々な作品を見たのですが、今年一番良かったのはフィリピン映画の「ティサイ」で去年の「眠らない」と同じくフィリピン映画が私的にグッときたなと。また、今年は「ローサは密告された」「ダイ・ビューティフル」などフィリピン映画が劇場公開された年でもあり、この二つもとても良かったこともあってフィリピン映画が熱かった年だったなと。
 あと、去年は行けなかったイタリア映画祭に今年は行ってみた。相変わらず今年もとても私好みの映画が多くて満足で、日本でなかなか劇場公開されにくいテーマ、例えばエホバの証人の一家に生まれた少女を主人公にした映画「ジュリアの世界」はこの映画じゃないと見えないなと思わせてくれる作品だったなと。また、劇場公開された作品だとベスト10にも入れたパオロ・ヴィルズィ監督作の「歓びのトスカーナ」や「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」、一筋縄ではいかない名優たちの群像劇「おとなの事情」なんかがとても良くて、来年もイタリア映画は積極的に見に行きたいなと思うのでした。


 とまあ、さっくり考えるとこんな感じの2016年でした。という訳で2017年もぼちぼち映画を見たいと思いますね。では皆さんもよいお年を!

俺と「パターソン」

ジム・ジャームッシュの「パターソン」を見た。アメリカのそんなに大きくない街パターソンに住むパターソンさん(アダム・ドライバー)の一週間を描いた物語で、びっくりするほど映画的な大きな出来事は何も起きない、いわゆる日常系と呼ばれるような作品だ。ただ、その代わり映えのしない日常の繰り返しが生む独特のリズム感が非常に心地いい作品だったのだ。

パターソンさん(地名との区別をつけるつけるという意味で、また彼の誠実な人柄に敬意をこめて本稿ではさん付けで呼ぶこととする)の職業はバスドライバーであり、年代物のバスの様子からまた彼と恋人とのやり取りからも、決して収入に恵まれているとはいえない仕事ではないかと思う。ただ、彼は傍から見ると”何が楽しいの?”という失礼極まりないことを言ってしまいそうな仕事が、自分の天職のように感じているような節があるのだな。
思えば、決められたコースを毎日周回する路線バスの仕事と彼の生活のリズムは共通点が多いように感じる。毎朝6時頃に目を覚まし、朝食のシリアルを食した後、徒歩で仕事場へと向かう。始業前のわずかな合間を縫って詩作に浸ったっていると、同僚にに声を掛けられ彼の愚痴を一頻り聞いたのち、今日のバスは街へと走り出す。そんなパターソンさんの昼食はいつも恋人が作ってくれるお弁当だ。彼のお気に入りの場所で彼女の料理を堪能したのち、彼は昼休みのわずかな時間を再び詩作に充てるのだ。そして、本日の仕事を終えた彼は少しさびれた風情の街を朝と同じく歩いて帰り、家の前で何故か傾いたポストを直して帰宅する。家では恋人が今日の出来事をすべて話すかのような勢い(コレはかなりの誇張表現だがパターソンさんとの対比でそう思えてしまうのだ!)で語るのを聞いたり、彼女が腕に夜をかけた食事を食べ、愛犬ナーヴィンの散歩がてらに行きつけのバーに向かう。これがパターソンさんの一日だ。
とまあ、これを文字にしてしまうと「何が面白いの?」という気持ちになってしまうのだけれども、一週間のほとんどが上記の枠を出ない彼の生活をもっと見たい、ずっと見ていたいという心持にさせてくれる作品なのだな。
何故、こんな変わり映えのない日常を私はずっと見たいと思ったのだろうか。一つにこの作品は変わらない日常を描いている以上に、その中にある変化、パターソンさんの周りの人は、もしかしたらパターソンさん自身も気づかないような小さな変化を描いているのだな。当たり前のような話だが、バスの乗客は毎日違うし、彼に毎朝話しかけてくる同僚の話だって日々変化している。また、恋人が作ってくれる料理だって昨日と同じではないし、行き帰り道も、バーに来るお客さんだって昨日とは同じではないのだ。
そんな日常にある小さな変化、今日という日を昨日とは違う日にしてくれる変化、何か大きな結果に結びつくわけではないそんな小さな変化が、実際には我々の日常を彩っている、そんなことを無意識のうちに感じさせてくれる作品だったなと。

もう一つ、この作品の持つ心地よさのもとになっているであろう部分に触れておきたいと思う。恋人が時おり作ってしまうアヴァンギャルドな料理(日本なら2chで嫁の料理がヤバいスレが立ちそうな勢いだ!)も受け入れるパターソンさんの度量の広さはもちろんのことだが、この町パターソンに住む人たちも優しい人、おおらかな人たちが多いように感じた。その代表例が映画の終盤、あろうことか彼の運転する路線バスが故障してしまい、乗客たちは立ち往生の憂き目にあってしまうシーンだ。私がパターソンさんならば「クレームとか来たらどうしよう」と、想像するだけでも胃が痛くなるような場面なのだが、そんな日常ではあまり起きてほしくないような出来事だが、実際のところは乗客の落ち着いた様子に救われる場面でもあるのだ。もしかしたら、パターソンの人たちにとっては「あのバスが壊れるなんてよくあることだよ」なんて風に思ってるのかもしれないが、ネガティブな気持ちが前に出てきそうな場面での彼らの普通の振る舞いに、パターソンさんも私も、ちょっと救われた思いがした。
この映画のタイトル「パターソン」はもちろん、淡々と日常を過ごすパターソンさんを指し示しているのだと思うが、実はそれだけじゃくパターソンという街の魅力、住んでいる人だったり、ロケーションとしての美しさをも内包した、そんなタイトルなんじゃないかと思う、そんな映画でしたよ。