俺と「サウルの息子」

「Arbeiten!」
「アルバイテン!」これは大学時代にドイツ語を履修していたにも関わらず、1から10まですら満足に言うことも出来ない私にとって理解できる数少ないドイツ語の一つだ。この単語は「働く」ことを意味する動詞だが、劇中では何度も何度も主人公たちゾンダーコマンドを急き立てるように、ナチスの親衛隊が「働け!」「働け!!」とこの単語を繰り返す。しかし、この単語が劇中で訳されることは殆どない。彼らゾンダーコマンドは死のために働き、働いた先に彼らを待ち受ける運命もまた死である。そんな彼らにとってこの単語が持つ意味はあってないようなものに等しく、他の言葉と同じくただの音として処理されているのかもしれない。
 このように、この映画の中では訳されないもの、映されないものが非常に多い。主人公サウルに焦点を絞り彼に極端に寄った映像を映すカメラからは、この施設で何が行われているのかを俯瞰的に説明されることはほとんど無い。ただ、ときおり描写されるおぞましい何か、いや描写すらされない彼らの言葉にもならない叫び声から、私はこの施設が私の想像すら生ぬるいような場所であること感じるのだ。だが、そのカメラの中心に常に映るサウルからは、彼が何故そんな行動を取るのか、その理由を彼が語ることはほぼ無いのだ。
 この映画を見終わった直後は、まるで自分がそこにいたかのような体験をもたらす映像とこの映画で描かれる内容、それこそ壮絶という言葉すら生ぬるいほどの内容が、フィクションではなく現実として存在したのだということを、まざまざと私の中に植えつけたように感じた。ただ一方で、時をおけばおくほどにまた別の思いが私の中で強くなっている気がする。それは「何故、サウルはあのような行動を取ったのか?」ということだ。もちろん、劇中でコレに対する明確な答えは無いのだが、この映画を自分の中で消化するために決して避けて通れないことだと思うので、ちょっとコレについて考えてみようと思う。

サウルの口からは多くは語られない息子や弔うという行為のことだが、この映画では息子に関する直接的な発言や、サウルの目的に関する描写が存外多い。例えば、思いつくので以下のようなものがある。

・サウルに息子はいないとする友人の発言(果たして本当に実の息子なのか?)
・サウルの名を知る女性と反応が薄いサウル
・ラビの真偽(あの男は本当のラビではないのではないか?)
・果たされぬ目的(結局息子は正式な手続きで埋葬されず)
・ラストでの笑顔

この中でも特に多くの人の心に残るのが、あの子が彼の息子であるかどうかの真偽(それをサウルが気付いているか否かも含めて)ではないだろうか?
もし、彼があの子を息子だと信じているのだとすれば、血を分けた息子のために何かをしてやる父親という物語になるのだが、私はそうではなく「彼自身はあの子が息子であろうとなかろうと、弔うことに価値を見出しているのではないか」そう思うのである。
もし、彼が息子を弔うことを目的としているのならば、そのことが果たされていない(少なくとも私にはそう思える)のに、何故彼はラストでまるで憑き物が落ちたような、それまでとは全く違う表情を見せたのだろう。このことが引っかかってしまうのだ。だからこそ、私はサウル自身が弔うことそのものに意義や秘めた思いを込めていたのではないかと思うのだな。
では、弔うことに込められていた彼の思いとは何だろうか?

この施設では、彼らの同胞やそれ以外の人々も含めて、人であることを奪われ、ある種の原料のように処理(=殺害)され、ただの灰として川に捨てられていく。そして、彼ら自身もその工場を動かすただの歯車のように、ときにナチスから叱責されながらも淡々と作業を繰り返していくのだ。この施設の目的がユダヤ人を含めた人たちの人間性を奪うことにあるとするのなら、サウルの行う弔うという行為は人であることを奪われた人たちの人間性を取り戻す、施設の目的と対極にある行為なのではないか。
そう考えると、サウルは自身の息子を弔うという行為を行うことで、彼自身がこの施設に抵抗しようとしたのではないだろうか。そう、多くのユダヤ人が行おうとした暴力による反乱とは別の手法を用いることで…。

それならば、彼にとってはあの子が息子であろうとなかろうと、さほど大きな意味を持たないであろうことも、彼の抵抗が誰の理解を得られないことも理解できる気がするのだ。さらに、目的を達成できなかったにも関わらずサウルが森の中の少年に向けた笑顔の持つ意味も、彼の真の目的である「人間性を取り戻すこと」を達成できた証だと私は思うのだ。


もちろん、これは私の勝手な解釈ですが、この映画にはあの施設の絶望的な状況を描く以上に、サウルの持つ行動に何かの意図があったような、そんなことを強く感じた作品でした。