俺と「歓びのトスカーナ」

好きな映画監督を教えてくださいと言われると、あれもこれも思いついて中々選べないですが、好きなイタリア人監督を教えてくださいと聞かれることがあるのなら、間違いなくこの人をあげるであろう私の大好きなイタリア人監督パオロ・ヴィルズィの最新作「歓びのトスカーナ」が公開されたので、さっそく見てきましたよ。まあ、大好きなイタリア人監督と言いながらも、見たことあるのはイタリア映画祭で上映された「来る日も来る日も」と昨年劇場公開された「人間の値打ち」、そしてこの「歓びのトスカーナ」の三作品だけなのですが、それはそれこれはこれ。
で、実は今年のイタリア映画祭でこの作品も上映されてたのでその時に見ても良かったのですが、諸事情により見れなかったので約2か月ほど首を長くして待ってたわけでしたが、待ってただけのことはあった素晴らしい作品でした。


主人公はベアトリーチェとドナテッラという二人の女性で、物語は彼女たちが精神に障害を抱える療養所で出会うところから始まる。患者なはずなのにまるでこの施設の主かのように振る舞うベアトリーチェと、殻に閉じこもり積極的には外の世界と殆ど交わろうとしないドナテッラは対照的な二人だ。そんな二人の女性があるきっかけで施設から抜け出し、それぞれの目的を胸に秘めながらトスカーナの逃避行を始めるというストーリーだ。
数年前に日本でも劇場公開された「人生ここにあり!」というイタリア映画がある。私がイタリア映画にはまるきっかけになったこの作品は、イタリアで精神病院を廃止することを決めた法律(バザリア法)が施行された当時のイタリアの様子を描いており、登場する障碍者と彼らの周りの人たちのキャラクターがとても愛らしくて、心の底から彼らを応援したくなる作品だったのだが、そんな彼らと比べるとベアトリーチェやドナテッラのキャラクターはどこかとっつきにくいというか、実際に私の身の回りにいたらちょっと距離を置きたくなるような二人だ。実は劇中で彼女たちが起こす問題への対応を職員たちが話し合うのだが、施設内で再び彼女たちを見守ろうとする穏健派とこの施設では対応できないので外へ引き取ってもらおうとする排斥派の二派(実際には黙して語らずの人も多いが)にわかれるのだが、自分がどちらの立ち位置に立つのかと考えたときに、間違いなく排斥派に近いのではないかなと思った。ただ、この映画はそんな人たちを断罪するような作品ではなくて、もっと人間の根源の素晴らしさに触れるような人間賛歌だったのだ。

私の映画の評価の源泉の一つとして共感がある。私もそんなにできてない人間なので、やっぱり自分と同じ境遇だったり、その境遇が理解できるようなキャラクターには共感して「ガンバレ!」とか「良かった」とかのポジティブな感情を抱くし、全然共感できないような輩が映画の中で不幸せな結末を迎えたときに「ザマーミロ!」というカタルシスを得たりもする。その一方で、私が共感できるような良い奴が不幸な結末を迎えることに何かしらのモヤモヤを感じてしまうし、ムカつくやつが幸せな結末を迎えてしまう時のモヤモヤはそれ以上かもしれない。
さて、この映画の結末を見届けたときに私は彼女たちに共感できるような心持になっていたのかと言えば、意外にそうでもなく、多分現実に彼女たちが居たのなら距離を置きたいと思う気持ちは変わっていないと感じたのだ。でも、不思議なことにこれまで見てきた多くの映画の共感できるキャラクターと同じぐらい、ちょっと距離を置きたいと思うこの二人の幸せを心の底から祈ってしまうそんな作品だったのだよ。


自分と共感できる人のことを共感できるのはある意味で自然で当たり前のことだと思うけども、裏を返せば自分が共感できない人の事を捨て去ってしまう世界に生きようとしているのかもしれないのだな。それよりも、この映画が感じさせてくれたような、自分が共感できない人の幸せを祈りたくなるような世界に生きることが、自分の世界を変えるきっかけなるのかもしれない、そんなことをごく自然と感じる素晴らしい作品でした。