俺と「タリーと私の秘密の時間」

「タリーと秘密の時間」を見てきましたよ。ジェイソン・ライトマン監督&シャーリーズ・セロン主演という「ヤング≒アダルト」と同じ組み合わせの作品ですが、本作もとても良かったなと思いましたね。
あちらの主人公メイビスはタイトル通りどこかで大人になりきれない年齢的には大人の女性。世間的に言えば”イタい”女性のお話で、私自身もその”イタさ”に身に覚えがあるだけに、どこかである種の共感を覚えつつ鑑賞したのですが、本作で彼女が演じる主人公マーロはそんな”イタさ”とは無縁に見える女性。年齢こそ私にまあまあ近い(といっても彼女よりはちょっと若いですが)だけで、性別も状況も全く正反対な彼女。けれども、本作は共感とは違うものの、ある種の気づきを感じさせてくれる作品でした。

主人公のマーロは愛する夫と二人の子供、そして間もなく生まれてくるもう一人の子供がお腹の中にいるという、私がその大変さ、辛さをどれだけ想像しようともその一端にもかすることのできない状況におかれており、日常の様々な出来事に疲弊しきっている姿が描かれます。彼女のそんな姿を見ているだけで、私が思っていることが彼女の大変さの一端に過ぎないということを分かっていつつも、この人スゲェなという感情(もちろん、体型を含めたシャリーズ・セロン本人へのスゲェという感情も含まれるが)を抱くのでした。ただ、この映画が私の琴線に触れた部分は、この母という存在の凄さとはもう少し違う部分じゃないかと思ったりしているのです。
単純な育児あるあるというジャンルの映画で見れば、未婚独身子無し男性の私がマーロのことを”あるある”と思う…訳もなく、上述したように畏敬の念でただただ彼女の行動を見てたりしたし、マーロの夫であるクレイグに、女性から見れば甘い!と言われそうですが、それなりにいい夫なんじゃないかなと思ったりして、全体的に明確な悪(ダメな人)というのが設定されてない作品なのも、もちろん問題提起的な要素もあるけど、夫婦や育児以上のもう少し踏み込んだ部分が、(少なくとも私にとっては)本質なのかと思った訳です。
子供の出産を間近に控えたある日、マーロは兄から出産祝いとしてナイトシッターを雇うことを提案され、初めこそ他人に家事を任せたくないと思うマーロはナイトシッターに乗り気になれなかったのですが、子供が生まれ、これまでも限界だったのにそれ以上の限界に陥ることになった彼女は、遂にナイトシッターとしてタリーという若い女性を雇うのですが…というストーリーです。

<ここから思いっきりネタバレ>

この映画、物語の後半で「二重螺旋の恋人」もびっくりな衝撃の展開を迎えます。ちなみに、引き合いに出したのが何で「二重螺旋の恋人」かというと、たまたま同じ日に見ただけというだけですが…。
話を本題に戻すと、この映画で後半に明かされる秘密とは、マーロが頼っていたナイトシッターのタリーが実は彼女の生んだ幻想で、ナイトシッターに頼っていた部分も彼女が”理想の自分”であるためにこなしていたというものでした。そのことは、この劇中にあった大小のひっかかり、家族のだれもタリーの存在に気づいていないという点や、タリーがクレイグと一夜を共にし、それをマーロが応援するというこちらが”えっ”と思うシーンを綺麗につなげていくもので、胸のつっかえがきれいに解消されていく展開がとても良かったです。
ただ、そんなストーリー展開以上に私の心に残ったのは、マーロ自身が自分はそう思っていなかったけれどそうでなかったという面でした。マーロ自身は問題はない…というよりも”そもそもこういうもの”という諦観があったように見受けられるマーロとクレイグの関係や子供たちとの関係、それに時間とともに変化が生じてしまった過去の親友との関係もそうですが、最も印象的だったのは彼女が自身を偽っていた、”あんなに大人な女性でも”容易に人生の落とし穴に落ちてしまうことでした。
ヤング≒アダルト」での主人公の痛さは非常にわかりやすく、だからこそ私にとっても共感しやすいものでしたが、本作も同じく人生の難しさを扱いつつも、共感できるのかは一見するとわかりにくい作品かもしれません。ただ、この映画の引っ掛かりを紐解いていくと、ジェイソン・ライトマンが持っている本質は「ヤング≒アダルト」の時と変わっていないように、私には思える作品でしたね。


あと、学校で息子の癇癪が爆発しちゃったときに”木になる”と言い始めた教師、あの人はホントに最高でしたね。ああいう脇役をサラッと出してくるあたりが、もう一つのこの映画の良さだと思いますよ!。