俺と「よこがお」

深田晃司監督の「よこがお」を見てきました。

同じく筒井真理子が出演している「淵に立つ」以来の深田監督作でしたが、相も変わらず何とも言えない不穏さ、いい意味でのおさまりの悪さが印象的な作品でしたが、それ以上に主演の筒井真理子の圧倒的な存在感と、それに負けず劣らずの存在感を見せた市川実日子との駆け引きがとても印象的な作品でした。

 

筒井真理子演じる市子が主人公の本作。彼女が訪問看護を行っていた大石家で起きたある事件と、その大石家の娘である基子(市川実日子)の市子に対する秘めた愛情が徐々に歪んだ思いに変化し市子の人生を狂わせていくという物語と、その基子がリサとして池松壮亮演じる米田に近づいていくという物語が入り混じり、それに加えて夢のような非現実の演出も加わって、物語の筋自体はシンプルながらどこかとっつきにくい独特の雰囲気を持つ作品でした。

思い返してみれば、「淵に立つ」もある家族に起きた大きな変化を軸にした物語ながら、その核心である浅野忠信演じる八坂のキャラクターの掴みどころのなさにどこか揺らぎのような不安定さの印象が強い作品でしたが、それと比較すると大分わかりやすい、寓話というよりも地に足ついた感じがする作品でしたね。

また、脇を固める役者陣もこれぞといったキャスティングで、久々に濡れ場俳優の本領発揮していた池松壮亮や、筒井真理子との微妙な関係が似合いすぎる吹越満、あとどこかふてぶてしさを感じる吹越満の息子役の子まで、痒いところに手が届くようなキャスティングも流石でした。

この物語の最大の魅力といえば筒井真理子演じる文子と市川実日子演じる基子の二人のキャラクターと演技にあると思う訳で、筒井真理子は優しさあふれる訪問看護師から妖艶さを醸し出し池松壮亮に近づく文字通りの謎の女性、どこにでも居そうなソバ屋のおばさんから果ては突如犬になる(あのシーンの訳わからなさと言ったら…!)という様々な姿を演じ切る、彼女の存在感があってこその映画という感じだったなと。
一方で彼女に負けず劣らずの存在感を発揮した基子役の市川実日子も素晴らしく、正直、池松壮亮市川実日子が同級生の恋人という設定や女子高生の妹がいるという設定は結構無理があるのでは…と思わなくもないのですが、それ以上に序盤の姉妹で市子と勉強する喫茶店のシーンでのしれっと基子の隣の席に移動したり、妹を見る彼女の視線といった立ち居振る舞いからして、筒井真理子の存在感に対抗できるという意味では市川実日子しか居なかったんだろうなと思わせるキャスティングでしたね。

さて、ここから本題。

そんな筒井真理子の市子と市川実日子の基子のキャラクターは様々な意味で非常に対比的に配されているなと感じた。ここでは便宜上、論理と感情という対比したいと思う。(厳密な日本語としての論理と感情という訳ではないのだが…あくまで概念として感じていただければ幸い)
愛する人である市子を振り向かせるために、愛するひとを傷つけるという非論理的(=嫌われる可能性が高い)行動を起こす基子。何故、彼女がそのような行動を取ったのか。基子の市子への思いと、市子が自分以外の他者に思いを向ける様子を見る中で、基子の中で渦巻く感情(非論理的な思い)があったことは想像に難くない。何せ、自身の妹に対しても市子を独占したいような仕草、ある種の嫉妬のような感情を覗かせるのである。
一方で基子に思いを向けられる市子が完全無欠の論理的な人間かというとそうでも無いわけで、例えば、事件が明るみに出た際の周囲への対応なんかは、もちろんすべてが完ぺきにこなすことができないことは分かりつつも、彼女自身が自責の念に駆られるように、後ろ暗い思いからくる行動(甥であったことを自分から伝えない)なんかは、正しいことすべきという論理的思考と感情とのゆらぎを感じさせる。

その後、市子はリサと名を変え、基子への復讐のために基子の恋人である米田に近づく…。ただ、復讐という情念に駆られているハズのリサから感じる雰囲気(少なくとも米田と接している部分では)は、市子のような感情、心の奥底に秘めた情念が表出するような表情は感じられず、むしろどこかミステリアスな部分を持ちつつもどこか理性的な風でもある。ただし、米田の前では見せない彼女の異様な姿、それこそ犬になったり、市子と米田の姿を窓から監視するあの佇まいは、まさに感情の権化といった感じで、基子が見せる情緒的な姿に相通じるものを感じたりした。

映画のラストで市子(リサではない)は基子と思わぬ再開を果たすわけだが、その市子の姿はかつて基子に抜身の感情をぶつけてきた基子とは程遠い、かつての市子に近い論理的な人物のように思えた。

そう考えていくと、この映画で描かれていた市子と基子という二人のキャラクターは、決して交わることのない二人というよりも、一人の人間が抱える二つの矛盾した側面、タイトル鵜に示す通りの「よこがお」を象徴しているの風に思えた作品だったな。

 

 

 

「淵に立つ」は論理を跳躍した感情をこちらにぶつけてくる作品というイメージでしたが、本作はそいうある種の飛躍、超越した感情といった部分はかなり抑えめになった分、我々にとってかなり身近で現実感のあるお話になったなと思いました。
ただ、マスコミのメディアスクラムの様子なんかがちょっと古臭い感じ(石井裕也の携帯嫌悪に似た凡庸さ)がしたり、クラブの描写なんかもいかにも過ぎてちょっと微妙な面もあり、個人的には「淵に立つ」の方が好きだったりします。

ただ、リサの部屋のお椀が椅子に乗ったまんまでゴミ袋が散乱してる様子や飾り気のない感じは好きで、「淵に立つ」も意味ありげな部屋の小道具や食べるものとかはすごい良かったことを思い出したりしたな。