俺と「愛のタリオ」「二重生活」「ビッグアイズ」

 今年になって何本か主要人物が下衆野郎―いわゆるダメ人間、こちら側に愛すべき部分を感じさせてくれる人間とは違う「あーこうなっちゃいかんよなー」と思うような、全く共感できないそんな類の男―が出てくる映画を見たので、私も将来そういう風な男にならないようにという自己への戒めとして、それらの下衆野郎の出てくる映画について書いておこうと思います。


・『愛のタリオ』 シム・ハッキュ(チョン・ウソン) 特徴:自己中心的 死んだ目 脱ぎたがり

 まずは『愛のタリオ』のハッキュですね。この野郎の特徴としてはアレですね、喜怒哀楽の変化に非常に乏しいところですね。大学を左遷されて田舎の市民講座の講師として生計立ててる時も、田舎の若い娘といい関係になってる時も、ソウルに帰って成功してる時も、ギャンブル中毒になってるときも、何より女性たちと大人の関係になってる時も、たいてい目は死んだまんまという凄い人ですね。
 ただ、彼自身が仙人みたいに現世に対する執着はないかというと全くそんな事はなくて、人並み以上に名誉とか成功とかを気にするタイプ何ですよね。そして、物凄い自信家。最終的にこんな田舎で閑職に甘んじてる訳は無いと思ってるし、人並み以上の生活をずっと送れると思ってるし(ただしそこに生活感は全くないのだが)、ギャンブルだって最後は自分が勝つものだと信じてる。でも、彼には多くの映画で描かれる、そういう人たちにあるギラギラした野望みたいなもが放つオーラみたいなものを感じないんですな。
 そういう風なKING OF 自己中心的な野郎だから、当然周りの不幸を生むし(でも、流石にあの展開で事故が起きるのは劇場で見てて笑ってしまった)、復讐を受けるのも当然だと思うけども、何故彼女はそこまで彼にのめりこんでしまったのだろうか。そりゃアレだけ男前でイイ体した脱ぎたがりなら当然だろ。モチロン、この映画はとても寓話的で彼女がそこまで彼に惹かれないと話が進まないという部分はある―例えばシンデレラで魔法使いが現れなければシンデレラは一生下女のままであるように―けれども、彼女のこの生活から抜け出したという部分、さらに言うと田舎特有の人間関係の濃密すぎる部分、例えば彼女とハッキュの関係は直ぐに多くの住人の知るところになってしまう部分や、自分をとても愛してくれるがゆえに足かせとも感じる時がある母親なんかはとてもリアルで、見てるこちらがちょっと慄いてしまうのだ。
 恐らく彼女にとってはハッキュこそがシンデレラの王子でありかつ魔法使いでもあったのだろう。そして、最終的にに彼女の生活(もちろんハッキュも含め)は大きく変わってしまうのだが、全ては愛のため起こった、そしてその当事者であるハッキュには愛の欠片もないという対比がこの映画をとても寓話的な作品にしてるなと思いましたよ。

 結論:自分大好きでもいいけど、死んだ目をするのは止めて誠意ある対応をしよう。


・二重生活 ヨンシャオ(チン・ハオ) 特徴:自己中心的 マザコンで奥さんも怖い 意外に暴力的

 続いては『二重生活』で文字通り二重生活を送ってたヨンシャオ。この野郎は、とにかくこの三人の中で一番リアリティがある存在ですね。さっきも書きましたが、ハッキュはどこか現実感の無い存在だし、後に説明する野郎も現実がベースになってるはずなのに、ちょっと現実離れしてる存在なのです。しかし、ヨンシャオは徹底的に現実に居そうな存在なのだ。 例えば、彼が二重生活を送るきっかけの一つが母からのプレッシャーだし、心の奥では今の生活が奥さんの力によるものだという彼女への引け目はあるし、そして弱いものには徹底的に強いところとか、総じて小物「どこかに居そうな小物よなー」と思わせてくれる人物でした。
 この映画で面白いなと思ったのは、この映画で象徴的に描かれる関係には二つがあって、一つは親子に代表される血縁の関係であり、もう一つはカネによる関係だなと。血の関係は繋がりはとても強固―例えばヨンシャオは愛人には暴力を振るうのだが、愛人の息子には常に彼女への暴力を見せないようにやさしく接する―のだが、彼が愛人との家庭を作った一因も血縁(息子を望むプレッシャー)であることに象徴されるように大きな足かせともなるのだな。
 一方で、金の持つ力は、多分現代中国では我々の想像以上大きなものなんだろうな。例えば、交通事故で死んだ娘への解決を図る方法は金だし、浮浪者が愛人に求めるものも金だ。そして、最終的にこの浮浪者は殺されてしまうのだが、彼自身の死が大きな出来事であった風には思えない。これは彼が金を持っていないことに起因するのではないかと思う。そんな大きな力を持つ金、それの金が自分の妻ものであるなら彼が彼女に対してドコか引け目を持っていても当然なのかも知れない…。
 ただ、一方でこの映画に出てくる女性はとても強かだ。最終的に妻は一人の女性として何事もなかったように生活を送るだろうし、アレほど暴力的に振舞っていた彼が今や愛人の尻に敷かれている状態だ。そう考えれば、もし若い愛人との関係があのまま続いていたとしても、いつか彼女の方から彼を見限るのではないか。そんな事を思う作品でもありましたね。

 結論:女性はとても強かだという事を認めて、暴力的にならないようにしよう。


・「ビッグ・アイズ」 ウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ) 特徴:自己中心的 超自分大好き&自信家

 ラストは『ビック・アイズ』のウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ)ですよ。いやー、この野郎は下衆野郎なんですが、他の二人が辛気臭い下衆野郎とすれば、コチラはとても陽気な下衆野郎ですね。まあ、コレにはヴァルツ先生の怪演によるところも多いと思いますが、それでも現実に居たら3人の中でも、一番いい人に見えそうな感じですね。ただ、下衆野郎な事には変わりないけど。
 少なくとも彼には他の人には無い才能があったと思う。それは作品を多くの人に広めるためのマーケティングの才能だ。現実がベースになっている物語だからifの話を論じてもしょうがないのかも知れないが、マーガレットにウォルターが居なければ彼女の作品がココまで有名になっていなかった、もしくは有名になっているのはもっと遅れていたと思う。
 しかし、彼はその名声を全て自信の手柄にしてしまうのだな。嘘をつくろうためにさらに嘘をつく人がいるのだが、ウォルターはまさにそういう人のように思う。はじめは、ちょっとした嘘だったのかもしれない(いや、明確な悪意かも知れない)が、マーガレットという稀代の才能と夫婦になる事で、彼の持つマーケティングの才能が十二分に開花し、大きな名声を得る。しかし、マーガレットとウォルターが揃う事で成り立っていた部分を嘘で塗り固めてしまった事で、その嘘がどんどんと肥大化して行き、その嘘にに囚われているようにも見えるのだな。
 個人的にこの映画で印象に残っているのは、懺悔のシーンだ。マーガレットも嘘の共犯者である事を自覚し赦しを求めるのだが、彼女の赦しは男性に従うべきだという当時の社会通念から来る判断によって無下にも断られてしまう。これが、ウォルターが巨大なウォルター・キーンとなってしまった土台なのではないかと思う。*1
 ただ。いつか嘘は綻びを見せるものであり、もしかしたらウォルター自身はその嘘すらも本当の出来事だと信じていたのかも知れないが、その嘘が白日の元にさらされる時の様子は彼自身の姿もあいまってとても滑稽だ。もちろんこれはクリストフ・ヴァルツの演技によるものが大きいのだが、それでも嘘を信じる事の滑稽さを表しているように思ったな。(やはり王様は裸なのだ!)

 結論:嘘を嘘で塗り固めるのはやめておこう。


 やっぱりこういうイケメンだったり、金持ちだったり、社交性があったりする人物だったとしても、下衆野郎にはなりたくないものですねー。えっ、お前にはそもそもムリだろって?そうですよね…。これからも慎ましく生きて行きたいと思います。

*1:余談だが劇中でマーガレットはオカルトやエホバの証人に目覚めるのだが、演じているエイミー・アダムス出演した「ザ・マスター」を想起してしまった。