俺と「リップヴァンウィンクルの花嫁」

 岩井俊二監督の「リップヴァンウィンクルの花嫁」をちょっと前に見ました。
初めて岩井俊二監督作品を見たのですが、とにかくその寓話のような世界観とそれにマッチした役者陣に魅了されて、コレはなんか感想書かないとな…と思うような作品だったのでした。
 特に主演のふたり、黒木華(最近きちんと読めるようになった)と綾野剛はどちらもとても魅力的なキャラクターで、綾野剛はそのトリックスター的な存在―ちなみに、私は今でもあの作品の中での彼は人間ではなくて、おとぎ話に出てくる人のふりをした悪魔のような人間以外の存在だと思ってます―が、まさに彼のために生まれてきたキャラクターだと思ったのですが、この感想では彼ではなく、黒木華が演じた皆川七海というキャラクターについて感じたことを記しておきます。


 「はたして彼女は何か変わったのか?」これはこの映画を見終わった直後から私の中に浮かび続けている疑問だ。多くの映画と同様に、七海は劇中で我々常人が3回生まれ変わっても体験しないような経験をする。普通の映画であれば“七海はこの経験で得た何かを糧に、彼女なりの人生を歩み続ける!”そんなことが見終わった後に思い浮かぶのだが、この映画の先にある彼女の人生を私なりに考えてみても、それが何なのか私にはよく分からない。いや、このことが悪いとかそういう訳では全く無くて、むしろここまで私の心に印象を残しているキャラクターであり、しかもあれだけの経験をしているはずの彼女なのにもかかわらず、「彼女は変化したのだろうか」ということがずっと引っかかり続けているのだ。
 皆川七海とはどういった人物なのだろうか。その事を考える上で私にとって最も印象的なのは、映画の前半で夫の不倫をバラされてしまった不倫相手の彼氏に向かって彼女が「アチャー」言い放つシーンである。普通…というか私なら愛する人の不貞行為に直面した時には、怒りや憤りなどの負の感情が噴出したり、あるいはそんなことはないと否定したりする行動をとるのだと思うが、彼女が放った一言は「アチャー」なのだ。
この発言、映画の中の人、事件の関係者が言い放った言葉というよりも、どちらかと言えば映画を見ている我々がするような、ある種の俯瞰的、自分を客観視しているような発言に感じたのだ。そんな彼女のどこかしら浮世離れした、地に足ついていないそんな様子に私自身は何とも言えない親しみを覚えるのである。
 「自分自身を強く持て」「自分なりの生き方」このような“良し”とされている生き方は、皆川七海の生き方とは全く対照的なように映る。ただ、一方で彼女自身の生き方はそんな“良し”とされる生き方に相通ずるような部分、多くの人にとって普通とされている生き方をなんとなしに選択しているような気がするのだ。例えば、夫となる男の出会いにしても「最近はみんなこういう感じだから」とSNSで出会って関係を持ち、彼女の結婚式にしても“いかにもありそう”な“心のこもった”演出(見てる側はそこに悪意を感じるのだが)がなされている。また、彼女の職業である派遣の教師にしても、恐らく私と同世代の彼女の選択として“いかにもありそう”なのだ。そんな“いかにもありそうなこと”を受容する彼女は、ある種私を含めた同時代の人間を象徴しているようにも感じて、そこに何とも言えない親しみを覚えたのだと思う。 しかし、そんな彼女のもつ性質、極端ともいえる他者を受容するその性質が、必ずしもこの映画で否定されているとは思わないのだ。
 七海の特性とでもいうべきその受容性は、確かに彼女に大きな変化―失業であり、結婚であり、離婚でもある―を与え、その多くは彼女にとってマイナスの影響を与えたものだと感じる。しかし、一方で彼女が持つその受容性を求めた人、それは真白であり、引きこもりの少女であるのだが、彼女受容性こそが救いであったように思う。だからこそ、私は彼女のこの特性が否定されているようには、むしろ素晴らしいものとして描かれているように思うのだな。


 初めの問いに戻ろう。「はたして彼女は何か変わったのか?」これに対する答えは「私は何も変わってないと思う」になるのだな。
 もし、映画の先の七海の人生があるとしても彼女は何かを受け入れ続けるんじゃないだろうかと、私は思う。多くの人が自分だけで選択できるような強い人間ではないように、何かを受け入れ続ける人生というのも我々が思ってる以上に価値のあるものなのかもしれない。そんなことをふと思ったりする映画でした。