俺と「たかが世界の終わり」

 公開を心待ちにしていたグザヴィエ・ドランの新作「たかが世界の終り」をちょっと前に見てきました。見終わった後の率直な感想は”ドランの作品の中では「トム・アット・ザ・ファーム」よりは好き”といった感じの作品でしたが、意外に結構後からじわじわくる感じな作品だと思ったので、大好きな監督の作品だし、見終わったしばらく経った今の思いをダラダラ書いておこうと思います。


 自身の死を実家の家族に告げるために12年ぶりに帰省したギャスパー・ウリエル演じる主人公ルイと、その家族の会話で構成されている会話劇に近い感じの本作(作品のベースになってるのが戯曲とのこと)、この会話がドランらしいカッチョイイセンスにあふれた映像で構成されてる!…という訳ではなく、全体的に登場人物たちの思いが非常につかみにくい、不定形という印象が非常に強い会話−「わたしはロランス」のXデー前(ロランスのカミングアウト前)の会話が非常に近いと感じた。余談だが劇中にロランスという名前が登場する―で構成されている。
 もちろん、回想をはじめとしたいくつかのシーンは私が求める、まさに”ドランらしい音楽と絵画的な画センスで作られた”シーン(個人的には冒頭の主人公が帰省するタクシーの後ろの窓に2つの赤い風船が上る部分がまさにソレ)があり、コチラの感情を刺激してくるのだが、多くの内容はちょっと睡魔に襲われそうな感じの内容になっており、後半、こちらが物語のテーマを掴みかけてきたなと感じたところで、物語に幕が下ろされる構成になっている。

 この映画の不安定さは、間違いなく主人公ルイの存在、彼が何を思い何を考えているかがよく分からない部分によるものだと思うのだが、一方で、彼の存在そのものが不明瞭だからこそ、各々の家族は自身の中にある彼の姿を投影し、彼に感情をぶつけているように感じるのだ。
 レア・セドゥ演じる彼の妹は、物心ついた時に既に兄は遠く離れた地で生きており、推理小説の探偵のように手紙や記事の情報を繋ぎ合わせて自身の中での兄の像を作り上げ、出会うことを待ち望んでいた彼が彼女の思い描いた彼との違いを確かめるかのように、矢継早に繰り返される会話の中で、彼女が思い描く彼の像を本人にぶつけているように思えた。しかし、彼からは明確な反応、それは肯定でも否定でもなく、単に彼がそこに居るだけのような反応しか得られない。
 ナタリー・バイ演じる母の反応も本質的には同じだ。もちろん彼女の場合はそれこそ彼が生まれた時、正しくはこの世に生れ落ちる前から、彼と関わっているハズなのだが、今の彼を見ているというよりも、彼女が持ってる正しい家族像を彼に押し付けているように感じた。ただ、ドランの過去作ならこの二人の関係、彼自身が何度も映画のテーマとして取り上げてきた母と息子という関係について、家族という今までよりも一回り大きな関係が描かれる本作では、相対的に今までよりも薄い関係として描かれていたように感じる。
 ただ、そんな中で非常に大きな感情の高ぶりを見せる人物がいる、それがヴァンサン・カッセル演じる彼の兄アントワーヌだ。
 本作の中では、常に不機嫌な感情としか言いようのない感情を見せるアントワーヌ。彼のその憤りの根源は何なのかという部分について、現在の私なりの解釈を書くのが実際のところこの記事の主たる目的である。


 この映画の中で各々のキャラクターに関する情報は驚くほど少ない。アントワーヌについて語られる情報は、

・主人公の兄であること
・妻カトリーヌと二人の子がいること
・地元の工場(?)で働いていること
・とにかく全編にわたって常に不機嫌

と言った感じだ。
 劇中での彼と妹との関係はすこぶる悪い。常に対立しているようにすら感じる。ただ、思うにこれは彼と彼女のルイに関する解釈の違いから来るものなのではないだろうか。
 常に何かに憤っているアントワーヌの様子の中でも、私の中で印象に残るシーンはルイがアントワーヌに”分かるよ”と言ったシーンだ。あの時のルイの言葉は、アントワーヌではない私自身もルイの本心だとは思えない(そもそもルイの本心というものが存在するのかどうかすら確信が持てない)そんな空虚な言葉だ。そんな空虚な言葉を吐くルイそのものにアントワーヌは憤っていたのだろうか。私にはそうは思えないのだ。
 アントワーヌが憤っていたもの、それはルイそのものというよりも、故郷を捨てたルイが戻ってきたことなんじゃないかと思う。おそらくルイのような存在には生きにくいであろうフランスの片田舎、アントワーヌはそのことを理解しているからこそ、彼を再び故郷に縛り付けることになりうる存在、母であり、妹が求める理想像のルイをルイが受け入れてしまうことを危惧し、憤っているのではないかと思う。
 私自身、十数年前に故郷を離れたが、年々その故郷に帰省すると、故郷にある家族というしがらみに時折息苦しさを感じてしまう。その息苦しさは、どこかアントワーヌの憤りと心の奥深くでつながっているように思えて仕方ない。アントワーヌ自身も彼自身が気付いていない心のどこかで、家族を捨て、故郷を離れ、自由を得た理想のルイというものを追い求めているのだ。(そして、それはアントワーヌ自身にとって得ることができないものであると彼自身が思っているモノだと思う。)
 アントワーヌはルイの死を悲しむだろうか。私は、この家族の中で誰よりもルイの死を悲しむのがアントワーヌじゃないかと思っている。彼の憤りがルイへの、そして彼自身への愛情から来ているのであれば、劇中で見せる彼の憤りの感情と同じぐらい、ルイの死に対する悲しみの感情が彼を満たす、そんな未来であってほしいと思っている自分がいるのだ。

 この映画の中で一人、ルイを中心とした家族から外れた人物がいる。それがマリオン・コティヤール演じるアントワーヌの妻カトリーヌだ。初めこそルイにひかれていた彼女が、映画の終盤ではルイにどちらかというと物悲しくて、冷ややかな視線を送る。彼女の視線こそが、外からは理解できない、そし中にいる人ですらコントロールできない家族というものの不思議さを表しているように思う。



「ロランス」や「Mommy」のような、分かり易くて派手な感情の揺さぶりではなく、静かで徐々にこちらを侵食してくるような感情の揺らぎで構成されているこの作品。彼の演出の静の部分は動や情の部分の激しさと比べて、ちょっと…いや一見するとかなり退屈だなと個人的には思いました。
ただ、ドランも2回に1回ぐらいこういう作品を撮らしてやることで、また別のこちらの感情を揺さぶってもらえるような傑作を作ってもらえると思えば、2千300円(パンフ代含む)というお布施は全然安いと思いました。(信者的感想)



(おまけ)
2017年2月現在、グザヴィエ・ドラン監督作ランキング

1.Mommy
2.わたしはロランス
=====最高という言葉も生ぬるい作品との壁=======
3.マイ・マザー
4.胸騒ぎの恋人
5.たかが世界の終り
=====好きと嫌いの間にある壁=======
6.トム・アット・ザ・ファーム