俺と「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

 「ダラス・バイヤーズクラブ」のジャン=マルク・バレ監督作でジェイク・ギレンホール主演の「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」を見てきました。映画の大枠は、不慮の事故で突然妻を亡くしてしまう夫の物語で、昨年の「永い言い訳」を思い起こすような内容でしたが、あちらに負けず劣らず素晴らしい作品でした。特に主演のジェイク・ギレンホールは一昨年の「ナイトクローラー」とはベクトルの違う、でもとても印象的な演技を見せてくれました。
 さて、この映画の原題は「Demoliton(破壊)」というタイトルなのですが、本当に映画の中の大事なことが一言でスッと心の中に落ちる素晴らしいタイトルでした。ということで、何故邦題はあんなことになってしまったのかという不平不満…ではなくて、この原題が持つ意味みたいなものをちょっと私なりに解釈してみたいと思います。


 「Demolition(破壊)」この単語の意味だけを見ると非常に不穏というか、物騒なタイトルだ。破壊と言えば例えばゴジラが行う都市破壊のように、我々人間には理解の及ばないコントロール不能なものといったものをイメージしてしまう。もちろん、この映画にの主人公であるジェイク・ギレンホールが演じるデイヴィス・ミッチェルも、一見すると非常に不穏当というか、はたから見ると突然に破壊衝動を起こすコントロール不能な存在に見える。おそらくそれを最も感じているのは彼の義父であり同じく大切なものを喪失してしまった、クリス・クーパー演じるフィル・イーストマンであるのは間違いない。ただ、この映画のデイヴィスの行動を反芻すればするほどに、彼の中の破壊衝動というものは少なくとも彼の中で非常にコントロールされているもののように感じたのだ。

 デイヴィスの破壊衝動はフィルの何気ない一言と彼女の妻の置き土産のような冷蔵庫の故障が発端となる。それが分解だ!
 冷蔵庫から始まり、変な動作を見せるパソコン(あの会社にIT専門の担当者はいないのだろうか…)、会社のトイレのドア、レストランのトイレの照明、果ては新品のエスプレッソマシンまで、とにかくあらゆるものを分解し始める…。ちょっと待て、彼はありとあらゆるものを分解してるのだろうか?違うな。彼の中には多分分解するものに対する明確なルールがある。劇中では明示されていないが、故障しているもの(もしくはしかけているモノ)だ。もちろん明確に当てはまらないものもあるが、それも彼または彼ら夫婦の所有物だ。決して突然店にあるジュークボックスの構造を調べたりはしていない。
 そしてもう一つ大事なポイントがある。フィルの助言は治すための分解だったはずだ。しかし、彼はモノを直すのではなく、分解し、一つ一つの部品をきれいに並べてそのままにしている。フィル自身は意図していたかどうかは別にして、普通なら人生の中で大きな部分を占めていたモノの損失を埋めるため、元通りの生活を送るためのアドバイスだったハズだ。しかし、フィルの興味は分解そのものに向いていて、その先にある直すという行為に興味を示そうとしてない。
 思えば我々の生活は多くの機械に囲まれている。トイレのドアのように非常に単純な構造のものもあれば、パソコンのように分解したからと言ってどうとなるものでもない複雑な構造のモノもある。話題はずれるが、デイヴィスのパソコンの故障は多分ソフトに起因していて、分解しても解決する類のものではないと思う。が、彼にとってはそんなのはどうでもいいのだ。もっと彼にとって重要なもの、それは彼にとっても理解不能なある種の感情、シンプルに言うと妻が死んでしまったのに喪失感を感じない自分自身に、何らかの故障があるのではないか、そんな感情と目の前にあるモノの故障がリンクして分解衝動を抑えきれないのだと私には感じた。いつか、分解の果てに、彼の感情に対する答えがあると心の奥底で感じ取ってるかのように…。
 だが、彼の破壊衝動はこの後、違った展開を見せるのだ。

 彼の破壊衝動の次のステップは文字通りの破壊だ。
 手っ取り早く分かり易いのは、金を払ってでもやりたかった住居解体の仕事だ。高級ブランドのスーツを着て、私には想像もつかないほどの高額な資金を運用していたかつての生活と異なり、作業着を着てハンマーを振りかざすその仕事。まさに破壊のイメージそのものだと言っていいだろう。また、毎朝ルーティンワークのように同じ車両に乗っていた男性に、突然自分の本当の仕事を打ち明ける。これもある種の人間関係の破壊行為だと言っていいように思う。そして、彼の行う破壊衝動の中で唯一と言っていい、私の中でコントロールされていないと定義している行為が列車の緊急停止レバーを引く行為だ。ただ、それにしても破壊行為の持つネガティブなイメージ、暴力だとか悪意というものからは程遠い―少なくとも彼の中にレバーを引くことで誰かを傷つけるような感情があったとは思えない―むしろ、自身の整理のつかない感情、コントロールできていない何かを押さえつけるために、レバーを引いた風にも思える。
 ただ、この文字通りの破壊衝動も分解衝動と同じく、ほとんどの行動が少なくとも彼の中ではコントロールされているように感じるのだ。非常に恥ずかしい話だが、いい年になった私でも非常にむしゃくしゃした時に何か近くのモノにあたりたくなる時がある。そして、衝動に駆られて思うがままに行動した後で、何らかの後悔をしてしまう。これが我々のイメージする破壊衝動の最も身近な形だと思う。ただ、彼の破壊衝動はそんな衝動とは一線を画す、非常にコントロールされたものだ。家の解体は初めこそ突飛なスーツ姿だが、その後はきちんと作業着を着て、道具をそろえ、ルールを守って解体してる姿がありありと想像できる。彼の行う行為決して無秩序な破壊ではないのだ。

 ここまで物語が進んで、ふと思うことがある。果たして彼の今は、妻が生きていた頃の彼と違っているのだろうか?一見すると破滅的に見えそうな彼だが、私は行為のベクトルの向きが変わっただけで、実は彼の本質に変化はほとんど生じてないんじゃないかと思うのだ。物語の中盤で出会うナオミ・ワッツ演じるカレンとその息子クリスの二人で暮らす一家。カレンは薬が手放せない女性であり、一方のクリスは一見すると破壊的な衝動の持ち主だ。ただ、デイヴィスが自らの傷をいやすためにドラッグに溺れるかと言えばNOであるし、クリスの破壊衝動を満たすために一緒に銃を撃ちに行った時も、きっちり防弾チョッキの上から彼を打つよう指示している。彼自身がコントロールできない何かに身を預けているようなそんなわけではないのだ。
 昔の彼は、恐らくルーチン的な生活、毎朝同じ時間に起き、シャワーを浴び、朝食を取り、仕事に行き、家に帰り、夫婦でベットを共にする…etcと彼のコントロールできる範囲の行動をとっていたことは想像に難くない。だからこそ、妻の冷蔵庫を直してというイレギュラーなお願いが彼の心に強く残ったのだろう。そして、その一方で、彼のそんな代り映えのしない行動に、彼女は彼の愛が冷めていると感じたのだろう。

 この物語で一番の破壊は何だろうか。数々の機械の分解?デイヴィスの住む家の破壊?それとも義理の両親との関係の破壊?私はこの映画の一番の破壊行為は彼の妻ジュリアが行った行動、俗にいう不貞行為が、この映画の中で一番大きな、そして唯一デイヴィスの生き方に変化を与えた破壊行為なんじゃないかと思った。
 常に自分の人生をコントロールしてきた彼、いや、もしかしたらジュリアと出会った頃の彼は、彼女と愛し合っていた頃の彼はそうではないかもしれないが、そんな彼の制御の枠外で起きていた出来事、そして彼自身が全く気づきもしなかったその出来事が、彼にとっての人生を変える大きな破壊なのだ。彼自身が妻の不貞で怒りではなく、自身への失望、そして妻への愛に気付くきっかけとなるのは、人生の皮肉以外の何物でもないと思った。しかし、それほど自分自身のことも、自分の身近な他人のことも良く分からないものなのだな。そして、デイヴィスと同じようにこの出来事に衝撃を受ける人物が彼女の父であるフィルだったという事実は、彼がデイヴィスと同じような人物であることを示唆してるようにも思えた。


 この映画のラストシーンはクリスがマンション破壊をデイヴィスに見せる所から始まる。コントロールされた破壊の様子はまさに以前のデイヴィスを象徴していると言っていいと思う。しかし、今の彼、妻の破壊衝動によって変化した彼が望んだのは破壊ではなく再生だったのだな。
 多くの人の人生の中には一見すると破壊にしか見えない行動や行為があるように思う。ただ、破壊の裏にあるその人の思いが、実は人生の中の大きな変化をもたらすきっかけなのかもしれない…そんなことを思う映画でした。