俺と「私だけのハッピーエンディング」と「50/50」

「私だけのハッピーエンディング」をMOVIXココエ尼崎で見てきたよ。

映画単体としてもかなり個人的なツボにはまる作品だったのですが、それ以上にチョット前に見た「50/50」とかなり似たテーマである「突然病を宣告された主人公がどう生きていくのか」を扱いながらも、その描かれ方がそれぞれに味があり、お互いを対比しながらアレコレ考えさせられるそんな二作品でありました。



主人公の年齢は「50/50」のJGLが27歳、「私だけのハッピーエンディング」のケイト・ハドソンが30歳と非常に近かったり、二人とも犬を飼ってたり、若干干渉気味な母親と主人公との関係が薄い父親といった家族との関係などなど、外交的で主導権を常に握っていくタイプ(要はリア充ってやつですよ!)のケイト・ハドソンと、どちらかといえば内向的で相手のなすがままに流れてしまう(要は草食系男子ってやつです)JGLという、正反対の性格をした二人なのに共通点が多いのが印象的。
特に二人が病を宣告された後でとる行動、JGLはいつもどおりの日常をすごそうとするし(アナ・ケンドリックとのカウンセリングでのやり取りとか)、ケイト・ハドソンも周りを巻き込んで馬鹿騒ぎをしようとする。一見正反対に見えるこれらの行動に根底流れている感情が、「自分の本心を悟られる事に対する恐怖」なんていう点は、特に病と向き合う人にとって共通の要素なのかもと思ったり。



そんな共通点の多い両作品ですが、核となるエピソードの描かれ方はそれぞれの作品で全く違う部分に目を向けてるわけで、『50/50」では病に向き合う主人公が大きな要素となるため、医療関連の描写が多くなり、その中での交流と突然訪れる死の恐怖を目の当たりにしていくことで、重圧に耐え切れなくなった主人公の苦悩が爆発する…。そんな構成で物語は描かれています。一方で病と向き合うことよりも、その先にある残りの人生に向き合う主人公を描いた「私だけのハッピーエンディング」。
自分の与えられた境遇に向き合うことで精一杯すぎて、実は多くの人に支えられながら歩いていけているんだという当たり前の事実になかなか気づけなかったJGLと、その当たり前の事実に気づけたからこそ、私の人生のラストは支えてくれた人への感謝で締めくくろうとするケイト・ハドソン。仮に「50/50」のその先に再びJGLの病が再発したとしたら、その時彼はケイト・ハドソンのような心境になるのだろうかそんな事を思い起こさせてくれる作品でした。
(逆に、「私だけのハッピーエンディング」での注射針をめぐって看護婦さんに悪態をつくシーンなんかも、「50/50」観てなければ病によって若干ヒステリックになってる主人公ってことが抜け落ちて、ただの嫌なシーンにしか思えなかっただろうなぁ…)



それぞれの作品単体で観たら不完全な部分も多い作品。だけれども私にとってこの二作品は、まるでパズルのピースのようにそれぞれの作品ががっちりとはまり合い、それぞれの不完全な部分を補い合うそんな二作品に思えて仕方がないのです。それぞれが完全な映画だったらこんな事を考えることもなかったと思うから、この二作品をほぼ同時期に見れて本当に良かったなぁ…。





・「わたしだけの50/50」
上にも書きましたが、最近は「50/50」のその先にある部分を勝手に妄想して1人でニヤニヤしてます。その程度にこの両作品が好き。

・あの直後に病を再発したJGLが、「あの時はブライス・ダラス・ハワードとひどい分かれ方をしてしまったよなぁ」と思い起こして、彼女と和解するシーン。
・火山の番組を完成→OAさせたけど評判は至って普通だった。そんなJGLにセス・ローゲンが「おまえらしい番組でよかったんじゃねーの」と声をかけてくれるシーン。
セス・ローゲンとJGLの立場が逆になったら、ケイト・ハドソンとルーシー・パンチみたいな関係になってたのかなぁ…。
などなど


(この二人の関係と)



(この二人の関係ってなんか似てるなぁと思った)