俺と「パターソン」

ジム・ジャームッシュの「パターソン」を見た。アメリカのそんなに大きくない街パターソンに住むパターソンさん(アダム・ドライバー)の一週間を描いた物語で、びっくりするほど映画的な大きな出来事は何も起きない、いわゆる日常系と呼ばれるような作品だ。ただ、その代わり映えのしない日常の繰り返しが生む独特のリズム感が非常に心地いい作品だったのだ。

パターソンさん(地名との区別をつけるつけるという意味で、また彼の誠実な人柄に敬意をこめて本稿ではさん付けで呼ぶこととする)の職業はバスドライバーであり、年代物のバスの様子からまた彼と恋人とのやり取りからも、決して収入に恵まれているとはいえない仕事ではないかと思う。ただ、彼は傍から見ると”何が楽しいの?”という失礼極まりないことを言ってしまいそうな仕事が、自分の天職のように感じているような節があるのだな。
思えば、決められたコースを毎日周回する路線バスの仕事と彼の生活のリズムは共通点が多いように感じる。毎朝6時頃に目を覚まし、朝食のシリアルを食した後、徒歩で仕事場へと向かう。始業前のわずかな合間を縫って詩作に浸ったっていると、同僚にに声を掛けられ彼の愚痴を一頻り聞いたのち、今日のバスは街へと走り出す。そんなパターソンさんの昼食はいつも恋人が作ってくれるお弁当だ。彼のお気に入りの場所で彼女の料理を堪能したのち、彼は昼休みのわずかな時間を再び詩作に充てるのだ。そして、本日の仕事を終えた彼は少しさびれた風情の街を朝と同じく歩いて帰り、家の前で何故か傾いたポストを直して帰宅する。家では恋人が今日の出来事をすべて話すかのような勢い(コレはかなりの誇張表現だがパターソンさんとの対比でそう思えてしまうのだ!)で語るのを聞いたり、彼女が腕に夜をかけた食事を食べ、愛犬ナーヴィンの散歩がてらに行きつけのバーに向かう。これがパターソンさんの一日だ。
とまあ、これを文字にしてしまうと「何が面白いの?」という気持ちになってしまうのだけれども、一週間のほとんどが上記の枠を出ない彼の生活をもっと見たい、ずっと見ていたいという心持にさせてくれる作品なのだな。
何故、こんな変わり映えのない日常を私はずっと見たいと思ったのだろうか。一つにこの作品は変わらない日常を描いている以上に、その中にある変化、パターソンさんの周りの人は、もしかしたらパターソンさん自身も気づかないような小さな変化を描いているのだな。当たり前のような話だが、バスの乗客は毎日違うし、彼に毎朝話しかけてくる同僚の話だって日々変化している。また、恋人が作ってくれる料理だって昨日と同じではないし、行き帰り道も、バーに来るお客さんだって昨日とは同じではないのだ。
そんな日常にある小さな変化、今日という日を昨日とは違う日にしてくれる変化、何か大きな結果に結びつくわけではないそんな小さな変化が、実際には我々の日常を彩っている、そんなことを無意識のうちに感じさせてくれる作品だったなと。

もう一つ、この作品の持つ心地よさのもとになっているであろう部分に触れておきたいと思う。恋人が時おり作ってしまうアヴァンギャルドな料理(日本なら2chで嫁の料理がヤバいスレが立ちそうな勢いだ!)も受け入れるパターソンさんの度量の広さはもちろんのことだが、この町パターソンに住む人たちも優しい人、おおらかな人たちが多いように感じた。その代表例が映画の終盤、あろうことか彼の運転する路線バスが故障してしまい、乗客たちは立ち往生の憂き目にあってしまうシーンだ。私がパターソンさんならば「クレームとか来たらどうしよう」と、想像するだけでも胃が痛くなるような場面なのだが、そんな日常ではあまり起きてほしくないような出来事だが、実際のところは乗客の落ち着いた様子に救われる場面でもあるのだ。もしかしたら、パターソンの人たちにとっては「あのバスが壊れるなんてよくあることだよ」なんて風に思ってるのかもしれないが、ネガティブな気持ちが前に出てきそうな場面での彼らの普通の振る舞いに、パターソンさんも私も、ちょっと救われた思いがした。
この映画のタイトル「パターソン」はもちろん、淡々と日常を過ごすパターソンさんを指し示しているのだと思うが、実はそれだけじゃくパターソンという街の魅力、住んでいる人だったり、ロケーションとしての美しさをも内包した、そんなタイトルなんじゃないかと思う、そんな映画でしたよ。