俺と「海街diary」

海街diary」をちょっと前に見てきました。この映画は久しぶりに2回劇場に足を運んだ作品で、どちらも見終わった後に「この映画が作る世界に浸っていたいな」と思ったとても好きな作品なのでした。特に2回目は会社の人と見に行って、鑑賞後に「海街最高!」と言いながら4姉妹の中で誰派なのかを熱く語り合ったりしたのですが、まあ、そういう私が圧倒的な千佳ちゃん派だという話はチョット置いといて、この映画を2回見て感じたことをちょっと書いておきたいと思います。


さて、初めてこの映画を見たときに印象に残ったのは、彼女たちが生き生きしてる日常を描いた部分、例えば「4姉妹で仲良くご飯を食べたり」「すずちゃんが彼と桜のトンネルを走り抜けたり」「姉妹で恋話したり」するシーンなどだったのです。特に、この映画に出てくる食べ物はどれもホントに美味そうで、「ちくわカレー食いてえな…」などと思いながらお腹を空かせて鑑賞したのでした。(ちなみにこの映画と並んで飯がうまそうだった映画は「リトルフォレスト」)
 それに、この映画では同じ行為が何度も繰り返されるのが印象に残ったのですよ。上述のご飯を食べるシーンもそうだし、彼女たちが普通に歩くだけのシーン、何気ない会話のシーンにしても、その内容はと同じくらい、食べる、歩く、話すなんて普通に私たちが日常で行っているだけの行為が、何故かとても印象に残る作品でした。
 でも、二回目に見たときはちょっと違う部分に目が行ったのですな。いや、モチロンそういう彼女たちの変わらない日常生活の一つ一つも同じく印象的だったのですが、それ以上にもっと表には出てこないような感情がとても印象に残ったのです。

 パンフレットにこの映画の音楽を担当した菅野よう子さんの文章があり、そこにこんな一文がある。「51%の生と49%の死」確かにこの映画には死にまつわる内容がとても多い。例えば、序盤に三姉妹がすずと出会うのは彼女たちの父のお葬式の場だし、三姉妹の母と久しぶりの再会を果たすのは彼女たちの祖母の法事の場だ。他にも長女の幸は看護師として日々人の死に接しているし、前述した「ちくわカレー」のシーンだって、彼女と祖母の思い出の料理だし、映画の最後は彼女たちがお世話になった食堂の女主人の葬式後の場面なのだな。
 これらのシーン死にまつわる場面に共通してることはなんだろうか。私はとても当たり前だけども「その人がいない」ことを考えてしまうのだ。例えば、特に法事なんてまさに数年も前に亡くなった人のことで皆が集まり、とるに足らない話(ちなみ私はこういうとるに足らない話が苦手でもある…)をして、何事もなかったように家に帰っていくわけだけども、それが故人と近しい人であればあるほどに故人のことを、その人が自分にとってどんな人であったかを整理する場でもあるんだろうなとも思う。
 もちろん、亡くなったばかりのころは別にしても、普段はその人が自分にとってどんな人だっただろうかなんてことは思いもしないだろうし、ましてや赤の他人である(もしかしたら親しい親族であったとしても)私たちがそんなことを推し量ることはできないと思う。でも、どんなに気丈な人、すずちゃんのような容姿のかわいらしさとは別に、ものすごくしっかりした芯を持ってる女性でも、その感情が溢れ出る瞬間があって、その瞬間が彼女が生き生きとしてる瞬間、例えば桜のトンネルを自転車で抜けるあの時と同じぐらい私の心を打つのだ。


 人は人生の中で何度もこういう出来事をくり返して行って、成長…いや生きていくんじゃないかな。そして、時にその経験をチョットだけしてる先人、幸さんや佳乃さんや千佳ちゃんのような人が彼女の支えになるのだろうな。
 この映画は波の音で始まり、波の音で終わる。押しては引いてかえす波は、変化のない、いつも通りの日常を象徴しているようにも思えるし、一方で、一見すると同じように見える波でもその形は全く同じではないように、少しづつ変わっているものを象徴してる風にも思える。2度目のエンドロールを眺めながらそんなことを思う作品でした。