俺と「ダラス・バイヤーズクラブ」

 今年に入ってまだ2ヶ月も経ってないのに、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」、「MUD -マッド」と出演作が立て続けに公開されてるマシュー・マコノヒー主演作「ダラス・バイヤーズクラブ」を見てきました。俳優さんの顔とか名前とかあんまり覚えないくせに、一度覚えちゃうと「○○の人」っていうイメージで見ちゃう私ですが、立て続けに出演作を見たのにも関わらず(当たり前だけども)どれもが全く違うキャラクターで、特に本作で彼が演じた「ロン・ウッドルーフ」は、この物語がフィクションである事を忘れるほどに、そこに本当の彼が居たとしか思えないほどの圧倒的な役作りで素晴しかったです。
 そして、同じくらいにジャレット・レト演じるレイヨンも素晴しくて、この二人の魅力だけでも延々と語っちゃいそうなうな素晴しい映画なんですが、そんな魅力はちょっとおいといて、この映画のラストシーンから感じたこの映画についてのアレコレを書いてみようと思います。


(当たり前だけど、ラストシーンについても書いてるので映画を見終わってから読んでね。)



・同じモノ、違うモノ

 さて、この映画のラストシーンは、ロデオをするロンの映像で幕を閉じる訳ですが、多分この映画を見た多くの人が思うように、あのシーンは彼の人生を象徴するモノだと感じるわけですよ。この映画で描かれる彼の人生とはまさしくロデオのようであり、獰猛な雄牛と同じように普通の人では太刀打ちできないような存在が、彼を人生と言う舞台から振り落とそうとする訳ですよな。それこそ、オープニングで振り落とされた人と同じように、多くの人はHIVという未知なる存在に対してなすすべもなく弄ばれ、人生と言う舞台から振り落とされて退場してしまう。もちろん、人間なら誰しもいつかはこの舞台から退場するのだけれども、彼らの舞台に用意されたあった雄牛は獰猛で容赦ないのだ…。
 しかし、この映画を見た誰もが分かる様に、少なくともロンはこの獰猛で容赦の無い雄牛を乗りこなす、というよりも雄牛にしがみつく術を身につけ、少しでもこの舞台に留まろうと必死に(多分、他人からはそうには見えなくとも)その雄牛の背にしがみ付いてる。でも、彼が乗りこなそうとしてる雄牛は、他の多くの人(HIVの患者たち)とは更に違った、一回りも二回りも違う、まさしく怪物しか言いようの無い雄牛なのである。
 その怪物を作り出してるのは未知のウィルスでも薬の副作用でもなく、我々の命を守る事を使命としてる筈の、医者であったり、製薬会社であったり、ひいては公権力(FDA)なんですよな。もちろんHIVウィルスと違って、彼らには少なくともロンを殺す事を使命としてるのではないのだが、彼らのルールを守るために行う事が、それこそ乗り手の指をジワジワとロープから引き剥がすかのように、間接的にロンを苦しめていく…。この、自分たちのルールを守るために行われる行為って言うのは、実はロンやダラス・バイヤーズクラブに対するFDAの行いだけじゃなくて、例えばカウボーイたち(もちろんカウボーイだけじゃないけども)のHIV患者に対する偏見であったり、かつてのロンがそうであったように、自分が理解できない他者への無理解から来る行為だったりするんですよな。
 でも、ロンはHIVとは比較にならないようなこの怪物のような存在に立ち向かい(恐らくそれは自分の中にある怪物と向き合う事でもある)、彼の痩せ細った体では直ぐに振り落とされそうな雄牛に必死にしがみつき、懸命に生きようとするのですな。そんな彼の姿はまさしく最高のカウボーイとして我々の眼に映るのだ。



 でも、私はロデオと彼の人生で決定的にに違う事が一つだけあるんだと思う。あくまでも自分の力だけで雄牛を乗りこなすカウボーイと違い、彼が怪物のような雄牛にあれだけしがみつく事が出来たのは、それこそクラブで彼のパートナーであったレイヨンであったり、彼に理解を示す女医イブ(ジェニファー・ガーナー)であったり、その他の多くのクラブの仲間やその支援者、そんな仲間たちの協力もあって(もちろんロン自身の力が素晴しいのは言うまでも無いけど)、誰も見たことも無い怪物のような雄牛を恐れる事もなく、誰も出来ないような乗りこなしが出来たんじゃないかな。
 そう、ロデオと違って人生は多くの人の助けを借りる事が出来るからより素晴しいんだよな。そんな事を思う映画でしたよ。