俺と「ベイビー・ドライバー」

エドガー・ライトの「ベイビー・ドライバー」を見た。元より洋楽好き、それも私の世代よりも一昔前、私が生まれる前の時代の音楽が好きということもあって最高の音楽映画だった訳だが、今回は「音楽と演出最高!」という私にとっては一番グッときたポイントをあえて外した、この映画のストーリーについてちょっと感じたことからまず書いておこうと思う。


この映画、音楽に合わせたキレッキレの演出がとくに印象的な内容であり、その演出と犯罪行為(というよりも脱出劇)の手際の良さに爽快感を感じさせる作風だと思うのだが、意外にも犯罪劇にはあまり似合わない非常に善悪の区別、特にキャラクターの役割分担においてはそれがはっきりついている内容で、ストーリーの中核は「ズレと贖罪」なのかなと思っている。
当たり前だが犯罪行為は悪だ。ただ、多くの映画の中ではその悪の行為を悪だと感じさせない理由付けがなされたり、犯罪行為をスリリングに演出することで善悪よりも成否に焦点を持っていたりする。この作品は序盤こそベイビーがキレッキレの手腕を見せて脱出劇を成功させ、彼にとって運命の人となるべき女性 と出会い、組織から足を洗って真っ当な人生を踏み出す…という流れなのだが、もちろんこの後の彼の人生は順風満帆に行くはずもなく、再び元の道に引きずり戻されてしまう。感覚的にはこの時のベイビーの心性は紛れもない善だと思うのだが、一方でこれまでの行為、悪の行為で得た利益を清算していない、いわば心と体が一致しないとでもいう感じの状態にあるように感じる。一方で、彼の最後の仕事となる強盗劇はこれまとは真逆に感じる、チグハグで行き当たりばったりで泥臭いものになっている。このチグハグさこそが、元々ずれていた彼の人生を修正するために必要だったズレであり、贖罪なんじゃないだろうかと思ったのだ。

さて、その彼の最後となる仕事で選曲したのはオランダのプログレッシブロックバンド、フォーカスの代表曲「Focus Pocus(邦題:悪魔の呪文)」だ。1960年代末期にイギリスで勃興し、その後ヨーロッパ各地に広まったこのプログレッシブロックというムーブメント、その中でも随一と言って良いほどの個性を持っていたのがこのフォーカスだ。何せ、ヴォーカルのはヨーデルまで曲に組み入れてくるのだから、その個性は凄まじいというしかない。この曲でも天才ギタリストであるヤン・アッカーマンの刻む超かっちょいいギターリフの後に続くのは「レイレレ レイレレ レイレレ レイレレ パッパパー」というヨーデルで、もう変という一言しかないのだ。だけれどもカッコよさとは対極にあるように一聴して感じてしまうこの珍妙さが、映画内で彼が正しい道に戻るためのズレを暗示してるように感じて素晴らしい選曲だと感じた。(もちろん、この曲が大好きだという点もおおいにあるのだが。)

映画のラストで彼の人生は真っ当な道、彼の心性とマッチした正しい道に戻るのだが、それに説得力を与えていたのは、裁判や刑務所内での生活ではなく、ヨーデルとギターリフが奏でる泥臭い逃走劇にあるように感じる、そんな作品でしたな。


俺と「歓びのトスカーナ」

好きな映画監督を教えてくださいと言われると、あれもこれも思いついて中々選べないですが、好きなイタリア人監督を教えてくださいと聞かれることがあるのなら、間違いなくこの人をあげるであろう私の大好きなイタリア人監督パオロ・ヴィルズィの最新作「歓びのトスカーナ」が公開されたので、さっそく見てきましたよ。まあ、大好きなイタリア人監督と言いながらも、見たことあるのはイタリア映画祭で上映された「来る日も来る日も」と昨年劇場公開された「人間の値打ち」、そしてこの「歓びのトスカーナ」の三作品だけなのですが、それはそれこれはこれ。
で、実は今年のイタリア映画祭でこの作品も上映されてたのでその時に見ても良かったのですが、諸事情により見れなかったので約2か月ほど首を長くして待ってたわけでしたが、待ってただけのことはあった素晴らしい作品でした。


主人公はベアトリーチェとドナテッラという二人の女性で、物語は彼女たちが精神に障害を抱える療養所で出会うところから始まる。患者なはずなのにまるでこの施設の主かのように振る舞うベアトリーチェと、殻に閉じこもり積極的には外の世界と殆ど交わろうとしないドナテッラは対照的な二人だ。そんな二人の女性があるきっかけで施設から抜け出し、それぞれの目的を胸に秘めながらトスカーナの逃避行を始めるというストーリーだ。
数年前に日本でも劇場公開された「人生ここにあり!」というイタリア映画がある。私がイタリア映画にはまるきっかけになったこの作品は、イタリアで精神病院を廃止することを決めた法律(バザリア法)が施行された当時のイタリアの様子を描いており、登場する障碍者と彼らの周りの人たちのキャラクターがとても愛らしくて、心の底から彼らを応援したくなる作品だったのだが、そんな彼らと比べるとベアトリーチェやドナテッラのキャラクターはどこかとっつきにくいというか、実際に私の身の回りにいたらちょっと距離を置きたくなるような二人だ。実は劇中で彼女たちが起こす問題への対応を職員たちが話し合うのだが、施設内で再び彼女たちを見守ろうとする穏健派とこの施設では対応できないので外へ引き取ってもらおうとする排斥派の二派(実際には黙して語らずの人も多いが)にわかれるのだが、自分がどちらの立ち位置に立つのかと考えたときに、間違いなく排斥派に近いのではないかなと思った。ただ、この映画はそんな人たちを断罪するような作品ではなくて、もっと人間の根源の素晴らしさに触れるような人間賛歌だったのだ。

私の映画の評価の源泉の一つとして共感がある。私もそんなにできてない人間なので、やっぱり自分と同じ境遇だったり、その境遇が理解できるようなキャラクターには共感して「ガンバレ!」とか「良かった」とかのポジティブな感情を抱くし、全然共感できないような輩が映画の中で不幸せな結末を迎えたときに「ザマーミロ!」というカタルシスを得たりもする。その一方で、私が共感できるような良い奴が不幸な結末を迎えることに何かしらのモヤモヤを感じてしまうし、ムカつくやつが幸せな結末を迎えてしまう時のモヤモヤはそれ以上かもしれない。
さて、この映画の結末を見届けたときに私は彼女たちに共感できるような心持になっていたのかと言えば、意外にそうでもなく、多分現実に彼女たちが居たのなら距離を置きたいと思う気持ちは変わっていないと感じたのだ。でも、不思議なことにこれまで見てきた多くの映画の共感できるキャラクターと同じぐらい、ちょっと距離を置きたいと思うこの二人の幸せを心の底から祈ってしまうそんな作品だったのだよ。


自分と共感できる人のことを共感できるのはある意味で自然で当たり前のことだと思うけども、裏を返せば自分が共感できない人の事を捨て去ってしまう世界に生きようとしているのかもしれないのだな。それよりも、この映画が感じさせてくれたような、自分が共感できない人の幸せを祈りたくなるような世界に生きることが、自分の世界を変えるきっかけなるのかもしれない、そんなことをごく自然と感じる素晴らしい作品でした。


俺と「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

 「ダラス・バイヤーズクラブ」のジャン=マルク・バレ監督作でジェイク・ギレンホール主演の「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」を見てきました。映画の大枠は、不慮の事故で突然妻を亡くしてしまう夫の物語で、昨年の「永い言い訳」を思い起こすような内容でしたが、あちらに負けず劣らず素晴らしい作品でした。特に主演のジェイク・ギレンホールは一昨年の「ナイトクローラー」とはベクトルの違う、でもとても印象的な演技を見せてくれました。
 さて、この映画の原題は「Demoliton(破壊)」というタイトルなのですが、本当に映画の中の大事なことが一言でスッと心の中に落ちる素晴らしいタイトルでした。ということで、何故邦題はあんなことになってしまったのかという不平不満…ではなくて、この原題が持つ意味みたいなものをちょっと私なりに解釈してみたいと思います。


 「Demolition(破壊)」この単語の意味だけを見ると非常に不穏というか、物騒なタイトルだ。破壊と言えば例えばゴジラが行う都市破壊のように、我々人間には理解の及ばないコントロール不能なものといったものをイメージしてしまう。もちろん、この映画にの主人公であるジェイク・ギレンホールが演じるデイヴィス・ミッチェルも、一見すると非常に不穏当というか、はたから見ると突然に破壊衝動を起こすコントロール不能な存在に見える。おそらくそれを最も感じているのは彼の義父であり同じく大切なものを喪失してしまった、クリス・クーパー演じるフィル・イーストマンであるのは間違いない。ただ、この映画のデイヴィスの行動を反芻すればするほどに、彼の中の破壊衝動というものは少なくとも彼の中で非常にコントロールされているもののように感じたのだ。

 デイヴィスの破壊衝動はフィルの何気ない一言と彼女の妻の置き土産のような冷蔵庫の故障が発端となる。それが分解だ!
 冷蔵庫から始まり、変な動作を見せるパソコン(あの会社にIT専門の担当者はいないのだろうか…)、会社のトイレのドア、レストランのトイレの照明、果ては新品のエスプレッソマシンまで、とにかくあらゆるものを分解し始める…。ちょっと待て、彼はありとあらゆるものを分解してるのだろうか?違うな。彼の中には多分分解するものに対する明確なルールがある。劇中では明示されていないが、故障しているもの(もしくはしかけているモノ)だ。もちろん明確に当てはまらないものもあるが、それも彼または彼ら夫婦の所有物だ。決して突然店にあるジュークボックスの構造を調べたりはしていない。
 そしてもう一つ大事なポイントがある。フィルの助言は治すための分解だったはずだ。しかし、彼はモノを直すのではなく、分解し、一つ一つの部品をきれいに並べてそのままにしている。フィル自身は意図していたかどうかは別にして、普通なら人生の中で大きな部分を占めていたモノの損失を埋めるため、元通りの生活を送るためのアドバイスだったハズだ。しかし、フィルの興味は分解そのものに向いていて、その先にある直すという行為に興味を示そうとしてない。
 思えば我々の生活は多くの機械に囲まれている。トイレのドアのように非常に単純な構造のものもあれば、パソコンのように分解したからと言ってどうとなるものでもない複雑な構造のモノもある。話題はずれるが、デイヴィスのパソコンの故障は多分ソフトに起因していて、分解しても解決する類のものではないと思う。が、彼にとってはそんなのはどうでもいいのだ。もっと彼にとって重要なもの、それは彼にとっても理解不能なある種の感情、シンプルに言うと妻が死んでしまったのに喪失感を感じない自分自身に、何らかの故障があるのではないか、そんな感情と目の前にあるモノの故障がリンクして分解衝動を抑えきれないのだと私には感じた。いつか、分解の果てに、彼の感情に対する答えがあると心の奥底で感じ取ってるかのように…。
 だが、彼の破壊衝動はこの後、違った展開を見せるのだ。

 彼の破壊衝動の次のステップは文字通りの破壊だ。
 手っ取り早く分かり易いのは、金を払ってでもやりたかった住居解体の仕事だ。高級ブランドのスーツを着て、私には想像もつかないほどの高額な資金を運用していたかつての生活と異なり、作業着を着てハンマーを振りかざすその仕事。まさに破壊のイメージそのものだと言っていいだろう。また、毎朝ルーティンワークのように同じ車両に乗っていた男性に、突然自分の本当の仕事を打ち明ける。これもある種の人間関係の破壊行為だと言っていいように思う。そして、彼の行う破壊衝動の中で唯一と言っていい、私の中でコントロールされていないと定義している行為が列車の緊急停止レバーを引く行為だ。ただ、それにしても破壊行為の持つネガティブなイメージ、暴力だとか悪意というものからは程遠い―少なくとも彼の中にレバーを引くことで誰かを傷つけるような感情があったとは思えない―むしろ、自身の整理のつかない感情、コントロールできていない何かを押さえつけるために、レバーを引いた風にも思える。
 ただ、この文字通りの破壊衝動も分解衝動と同じく、ほとんどの行動が少なくとも彼の中ではコントロールされているように感じるのだ。非常に恥ずかしい話だが、いい年になった私でも非常にむしゃくしゃした時に何か近くのモノにあたりたくなる時がある。そして、衝動に駆られて思うがままに行動した後で、何らかの後悔をしてしまう。これが我々のイメージする破壊衝動の最も身近な形だと思う。ただ、彼の破壊衝動はそんな衝動とは一線を画す、非常にコントロールされたものだ。家の解体は初めこそ突飛なスーツ姿だが、その後はきちんと作業着を着て、道具をそろえ、ルールを守って解体してる姿がありありと想像できる。彼の行う行為決して無秩序な破壊ではないのだ。

 ここまで物語が進んで、ふと思うことがある。果たして彼の今は、妻が生きていた頃の彼と違っているのだろうか?一見すると破滅的に見えそうな彼だが、私は行為のベクトルの向きが変わっただけで、実は彼の本質に変化はほとんど生じてないんじゃないかと思うのだ。物語の中盤で出会うナオミ・ワッツ演じるカレンとその息子クリスの二人で暮らす一家。カレンは薬が手放せない女性であり、一方のクリスは一見すると破壊的な衝動の持ち主だ。ただ、デイヴィスが自らの傷をいやすためにドラッグに溺れるかと言えばNOであるし、クリスの破壊衝動を満たすために一緒に銃を撃ちに行った時も、きっちり防弾チョッキの上から彼を打つよう指示している。彼自身がコントロールできない何かに身を預けているようなそんなわけではないのだ。
 昔の彼は、恐らくルーチン的な生活、毎朝同じ時間に起き、シャワーを浴び、朝食を取り、仕事に行き、家に帰り、夫婦でベットを共にする…etcと彼のコントロールできる範囲の行動をとっていたことは想像に難くない。だからこそ、妻の冷蔵庫を直してというイレギュラーなお願いが彼の心に強く残ったのだろう。そして、その一方で、彼のそんな代り映えのしない行動に、彼女は彼の愛が冷めていると感じたのだろう。

 この物語で一番の破壊は何だろうか。数々の機械の分解?デイヴィスの住む家の破壊?それとも義理の両親との関係の破壊?私はこの映画の一番の破壊行為は彼の妻ジュリアが行った行動、俗にいう不貞行為が、この映画の中で一番大きな、そして唯一デイヴィスの生き方に変化を与えた破壊行為なんじゃないかと思った。
 常に自分の人生をコントロールしてきた彼、いや、もしかしたらジュリアと出会った頃の彼は、彼女と愛し合っていた頃の彼はそうではないかもしれないが、そんな彼の制御の枠外で起きていた出来事、そして彼自身が全く気づきもしなかったその出来事が、彼にとっての人生を変える大きな破壊なのだ。彼自身が妻の不貞で怒りではなく、自身への失望、そして妻への愛に気付くきっかけとなるのは、人生の皮肉以外の何物でもないと思った。しかし、それほど自分自身のことも、自分の身近な他人のことも良く分からないものなのだな。そして、デイヴィスと同じようにこの出来事に衝撃を受ける人物が彼女の父であるフィルだったという事実は、彼がデイヴィスと同じような人物であることを示唆してるようにも思えた。


 この映画のラストシーンはクリスがマンション破壊をデイヴィスに見せる所から始まる。コントロールされた破壊の様子はまさに以前のデイヴィスを象徴していると言っていいと思う。しかし、今の彼、妻の破壊衝動によって変化した彼が望んだのは破壊ではなく再生だったのだな。
 多くの人の人生の中には一見すると破壊にしか見えない行動や行為があるように思う。ただ、破壊の裏にあるその人の思いが、実は人生の中の大きな変化をもたらすきっかけなのかもしれない…そんなことを思う映画でした。

俺と「ロボット・ソリのQ&A」

映画祭のレイトショー的な上映時間なのにQ&Aしてサイン会までしてくれた「ロボット・ソリ」のイ・ホジェ監督に敬意を表して、相変わらずメモすら取っていないその内容を、忘れる前にざっくりした範囲で書いときます。(間違いとかは大目に見てね)

・監督挨拶
「この作品は今日が日本で初上映されるということで、日本で初めてこの作品を見る人たちにあえて非常に光栄です。楽しんでいただけたでしょうか?(盛大な拍手)ありがとうございます。
この映画は韓国では去年公開されて、私も久しぶりに皆さんと一緒に鑑賞したのですが、個人的には非常に満足してる作品ですが、ああもうちょっとこうすればよかったな…なんて思いながら見てました。」


・SF的な要素と親子の愛情という非常に身近な要素が融合した作品だなと感じたのですが、韓国での反応はどうだったのでしょうか?
「興行的には同時期に大ヒット作品があったりしてなかなか思うようにはいかなかった面もありますが、何度も見るほど大好きだという方もいてくれてとてもうれしいです。」


・劇中で登場するソリの造形はR2D2に非常に似てるなと思いましたが、後半はちょっとETのようにも感じました。このデザインについては監督がイメージされていたのでしょうか?
「ソリのデザインはデザイナーの方にお願いしたのですが、私からのデザイン的なお願いはピクサーのロボット(おそらくウォーリー)には似せないで!というものでしたが、出来上がりはR2D2にそっくりになっちゃいましたね…。ただ、モチーフとしては今や街角に多くみられる監視カメラをモチーフにしています。
元々この作品の脚本を書き始めた段階では、ソリが多くの言葉から学習していくという風なストーリーを考えていました。ただ、脚本を書いていくうちに映画のテーマが徐々に記憶、ある人にとっては忘れたいが忘れることのできない哀しい記憶にシフトしていき、最終的にこの映画の形となりました。劇中で登場する事件はモチーフの事件(大邱地下鉄放火事件)があります。この事件は多くの犠牲者を出してしまいましたが、もっとしっかりした対策、対応をしていればこのような大きな被害は出ていなかったと言われています。しかし、韓国ではその後もこの事故同様にセウォル号事件のような、防げるはずだった大きな事件が起きています。
我々がその事件の哀しい記憶をきちんと風化させずに受け止めていれば、そんな悲しい事件を防げたはず。そんな思いもこの映画に込めています。」


・登場した時は無機質に感じたソリが後半では非常に愛おしい存在に変化していったのですが、撮影中にもそのような変化はあったのでしょうか?
「まさしく、我々も撮影時に同じような思いを感じていました。主演のイ・ソンミンさんは多くの時間を無機質なロボットと一緒に過ごすことになり、ちょっと寒い思いをしていたかもしれませんが、現場ではソリのオペレーターの二人のことを”ソリのおじさん”と呼んだりして、皆がソリに愛着を持った空気の中で仕事をしていました。」


その後のサイン会のサインではソリをわざわざ書いてくれたりと、非常にお茶目でファンサービスに溢れつつも、社会に対するしっかりした視線も併せ持つ監督さんだな(これはバティンテロのヴェルガラ監督も同じ)と思いました。

俺と「パティンテロのQ&A」

大阪アジアン映画祭2017で見た「パティンテロ」。映画の方もなかなか面白かったですが、ミーク・ヴェルガラ監督のQ&Aが負けず劣らず非常に面白かったので、備忘録としてうろ覚えの範囲で書いときます…。(間違っててもご容赦を…)


・監督挨拶
「今日は私の映画を見に来てもらってホントにありがとうございます。私自身、日本の多くの日本の文化、アニメや漫画や映画に影響を受けており、そんな私の大好きな国日本でこの作品を上映できる機会を頂いてとても光栄に思っています。」


・なぜ”パティンテロ”(チーム&ターン制の鬼ごっこみたいなフィリピンの遊び)を題材にしようと思ったのですか?
「日本の映画やアニメでは普通のスポーツ・遊び、例えばゴルフや卓球などを題材にした素晴らしい作品が多くあります。それをフィリピンに当てはめたときに何になるか?と考えて当てはまったのが”パティンテロ”になりました。この遊びはフィリピンでは大人から子供まで誰でも知ってるとてもポピュラーな遊びです。」


・この映画は監督のデビュー作ですが、フィリピンの映画祭で多くの賞を受賞されています。特に、ジェンダー・センシティビティ賞という、ちょっと我々には馴染みのない賞を受賞されてますが、どういう賞なのでしょうか?
「この賞は男女の役割やLGBTの描写が非常に模範的(相互理解を深めるという意味で…ということだと思う)であるという賞に送られます。作品中の主人公のキャラクターやゲイのカップルが家庭の中に溶け込んでいる様子などが評価され、受賞することになりました。」


・監督は日本のアニメや映画などから影響を受けたとおっしゃっていたが、例えばキック・アスのようなアメコミヒーローからの影響は受けていますか?(「バーミー」田中監督からの質問)
「日本のアニメや映画と同じぐらいアメコミヒーローも私にとって非常に身近な存在でしたので、その影響も非常に大きく受けています。例えば劇中に出てくるZボーイのキャラクター造形はまさにソレですし、彼が突然消え去るシーンなんかはバットマンがパッと消える演出を非常に意識しています。」
(Q&Aでは触れられていなかったが、エンドロール後に出てくる文字なんかもそうだと思う。)


・主人公の家庭描写など、ちょっと理解しにくい面があったりしたので、その部分について補足説明をお願いします。
「主人公の母親は海外で働いており、彼らの面倒は祖母が見ています。これはフィリピン人にとっては非常によくある出来事で、OFW(Overseas Filipino Workers…フィリピン人海外労働者)と呼ばれており、医療やメイドなどの仕事を海外でしなが母国に住む家族に送金しています。劇中の最後で主人公たちを待ち受ける運命も実はフィリピン人にとっては非常にごくありふれたモノなのです。ただ、これはフィリピン人以外にはなかなか理解できないものなのかもしれません。この作品はそもそも海外で上映することを想定せずに作っており、その部分の補足説明が必要だという事は非常に参考になりました。」


・映画を見ているとちょっとノスタルジックに感じる部分があったのですが、どのような時代設定になっているのでしょうか?
「この時代という具体的な設定はしてませんが、おっしゃる通りちょっとノスタルジーを感じる一昔前の設定にしています。例えば”パティンテロ”の競技前にするコイントスで使われてるコインは、今は使われていないちょっと前のコインを使っています。また、今ではフィリピンで当たり前に使われている携帯電話も登場させていません。また、今のフィリピンの子供は映画のように”パティンテロ”に興じてるというのもあまりないです。」(画面もチョットセピア色がかった色調があったりしました。)


・劇中の音楽がとても印象的だったのですが、あれはオリジナル何でしょうか?
「劇中の音楽は私の友人のラッパーやロックバンドなどでマルチに活躍している、フィリピン人のミュージシャンにお願いして作曲してもらいました。すべて彼のオリジナル曲になります。」


といった感じのQ&Aでした。

あと、おまけ(サインしてもらったときに質問してみた)
・試合のシーンがアニメ的に演出されていて非常に印象的でしたが、何かモデルにしたアニメとかはあるんでしょうか?
「スポーツアニメ、例えばスラムダンクとか、ハイキュー、あとキャプテン翼なんかが大好きで、演出の元ネタになっています。」

俺と「たかが世界の終わり」

 公開を心待ちにしていたグザヴィエ・ドランの新作「たかが世界の終り」をちょっと前に見てきました。見終わった後の率直な感想は”ドランの作品の中では「トム・アット・ザ・ファーム」よりは好き”といった感じの作品でしたが、意外に結構後からじわじわくる感じな作品だと思ったので、大好きな監督の作品だし、見終わったしばらく経った今の思いをダラダラ書いておこうと思います。


 自身の死を実家の家族に告げるために12年ぶりに帰省したギャスパー・ウリエル演じる主人公ルイと、その家族の会話で構成されている会話劇に近い感じの本作(作品のベースになってるのが戯曲とのこと)、この会話がドランらしいカッチョイイセンスにあふれた映像で構成されてる!…という訳ではなく、全体的に登場人物たちの思いが非常につかみにくい、不定形という印象が非常に強い会話−「わたしはロランス」のXデー前(ロランスのカミングアウト前)の会話が非常に近いと感じた。余談だが劇中にロランスという名前が登場する―で構成されている。
 もちろん、回想をはじめとしたいくつかのシーンは私が求める、まさに”ドランらしい音楽と絵画的な画センスで作られた”シーン(個人的には冒頭の主人公が帰省するタクシーの後ろの窓に2つの赤い風船が上る部分がまさにソレ)があり、コチラの感情を刺激してくるのだが、多くの内容はちょっと睡魔に襲われそうな感じの内容になっており、後半、こちらが物語のテーマを掴みかけてきたなと感じたところで、物語に幕が下ろされる構成になっている。

 この映画の不安定さは、間違いなく主人公ルイの存在、彼が何を思い何を考えているかがよく分からない部分によるものだと思うのだが、一方で、彼の存在そのものが不明瞭だからこそ、各々の家族は自身の中にある彼の姿を投影し、彼に感情をぶつけているように感じるのだ。
 レア・セドゥ演じる彼の妹は、物心ついた時に既に兄は遠く離れた地で生きており、推理小説の探偵のように手紙や記事の情報を繋ぎ合わせて自身の中での兄の像を作り上げ、出会うことを待ち望んでいた彼が彼女の思い描いた彼との違いを確かめるかのように、矢継早に繰り返される会話の中で、彼女が思い描く彼の像を本人にぶつけているように思えた。しかし、彼からは明確な反応、それは肯定でも否定でもなく、単に彼がそこに居るだけのような反応しか得られない。
 ナタリー・バイ演じる母の反応も本質的には同じだ。もちろん彼女の場合はそれこそ彼が生まれた時、正しくはこの世に生れ落ちる前から、彼と関わっているハズなのだが、今の彼を見ているというよりも、彼女が持ってる正しい家族像を彼に押し付けているように感じた。ただ、ドランの過去作ならこの二人の関係、彼自身が何度も映画のテーマとして取り上げてきた母と息子という関係について、家族という今までよりも一回り大きな関係が描かれる本作では、相対的に今までよりも薄い関係として描かれていたように感じる。
 ただ、そんな中で非常に大きな感情の高ぶりを見せる人物がいる、それがヴァンサン・カッセル演じる彼の兄アントワーヌだ。
 本作の中では、常に不機嫌な感情としか言いようのない感情を見せるアントワーヌ。彼のその憤りの根源は何なのかという部分について、現在の私なりの解釈を書くのが実際のところこの記事の主たる目的である。


 この映画の中で各々のキャラクターに関する情報は驚くほど少ない。アントワーヌについて語られる情報は、

・主人公の兄であること
・妻カトリーヌと二人の子がいること
・地元の工場(?)で働いていること
・とにかく全編にわたって常に不機嫌

と言った感じだ。
 劇中での彼と妹との関係はすこぶる悪い。常に対立しているようにすら感じる。ただ、思うにこれは彼と彼女のルイに関する解釈の違いから来るものなのではないだろうか。
 常に何かに憤っているアントワーヌの様子の中でも、私の中で印象に残るシーンはルイがアントワーヌに”分かるよ”と言ったシーンだ。あの時のルイの言葉は、アントワーヌではない私自身もルイの本心だとは思えない(そもそもルイの本心というものが存在するのかどうかすら確信が持てない)そんな空虚な言葉だ。そんな空虚な言葉を吐くルイそのものにアントワーヌは憤っていたのだろうか。私にはそうは思えないのだ。
 アントワーヌが憤っていたもの、それはルイそのものというよりも、故郷を捨てたルイが戻ってきたことなんじゃないかと思う。おそらくルイのような存在には生きにくいであろうフランスの片田舎、アントワーヌはそのことを理解しているからこそ、彼を再び故郷に縛り付けることになりうる存在、母であり、妹が求める理想像のルイをルイが受け入れてしまうことを危惧し、憤っているのではないかと思う。
 私自身、十数年前に故郷を離れたが、年々その故郷に帰省すると、故郷にある家族というしがらみに時折息苦しさを感じてしまう。その息苦しさは、どこかアントワーヌの憤りと心の奥深くでつながっているように思えて仕方ない。アントワーヌ自身も彼自身が気付いていない心のどこかで、家族を捨て、故郷を離れ、自由を得た理想のルイというものを追い求めているのだ。(そして、それはアントワーヌ自身にとって得ることができないものであると彼自身が思っているモノだと思う。)
 アントワーヌはルイの死を悲しむだろうか。私は、この家族の中で誰よりもルイの死を悲しむのがアントワーヌじゃないかと思っている。彼の憤りがルイへの、そして彼自身への愛情から来ているのであれば、劇中で見せる彼の憤りの感情と同じぐらい、ルイの死に対する悲しみの感情が彼を満たす、そんな未来であってほしいと思っている自分がいるのだ。

 この映画の中で一人、ルイを中心とした家族から外れた人物がいる。それがマリオン・コティヤール演じるアントワーヌの妻カトリーヌだ。初めこそルイにひかれていた彼女が、映画の終盤ではルイにどちらかというと物悲しくて、冷ややかな視線を送る。彼女の視線こそが、外からは理解できない、そし中にいる人ですらコントロールできない家族というものの不思議さを表しているように思う。



「ロランス」や「Mommy」のような、分かり易くて派手な感情の揺さぶりではなく、静かで徐々にこちらを侵食してくるような感情の揺らぎで構成されているこの作品。彼の演出の静の部分は動や情の部分の激しさと比べて、ちょっと…いや一見するとかなり退屈だなと個人的には思いました。
ただ、ドランも2回に1回ぐらいこういう作品を撮らしてやることで、また別のこちらの感情を揺さぶってもらえるような傑作を作ってもらえると思えば、2千300円(パンフ代含む)というお布施は全然安いと思いました。(信者的感想)



(おまけ)
2017年2月現在、グザヴィエ・ドラン監督作ランキング

1.Mommy
2.わたしはロランス
=====最高という言葉も生ぬるい作品との壁=======
3.マイ・マザー
4.胸騒ぎの恋人
5.たかが世界の終り
=====好きと嫌いの間にある壁=======
6.トム・アット・ザ・ファーム

俺と「シネマート心斎橋でドラゴン×マッハ!を見る方法」

〜1月20日金曜日の昼下がり〜

「やあマイク、久しぶり!」
「フィル。今年もよろしく!」
「新年早々、どうやら凄いアクション映画が公開されてるらしいじゃないか。」
「もしかして、”ドラゴン×マッハ!”のことかい?いやー、ホント凄い映画だったよ。」
「そうそれそれ、それでどこに行けば見られるのか、映画に詳しい君にちょっと相談しようと思ってね。」
「なんだ、そんなことならお安い御用さ。シネマート心斎橋に行けば見ることができるよ!」
「ありがとうマイク。じゃあ、早速今週末にでも見に行ってみるよ!」
「…。フィル…、ちょっと待った!」
「マイクどうしたんだい?他に何か知っておくことがあるっていうのかい?」
「フィル…君はシネマート心斎橋に行ってどうするつもりだったんだ?」
「そりゃー、普通にチケットカウンターの人にドラゴン×マッハ!1枚ってお願いして…」
「フィル…すでにその選択が初心者にありがちな罠に陥ってるんだ!」
「マイク、言ってる意味が全く理解できないよ!」
「君がまず知っておくべきこと、それはこのドラゴン×マッハ!がとんでもない作品だということだ。」
「(そんなの分かってるよ、だから見に行くんじゃないか…)」
「そんな君が今週末シネマート心斎橋に行って言うことは、まず”TCGメンバーズカードに入会させてください!”だ!」
TCGメンバーズカード!?」
「そうするとチケットカウンターの優しい係員さんが君に1枚のカードを手渡してくれる。その裏にペンで署名して入会金1000円を払うんだ、そうすれば君もTCGメンバーズっていう寸法さ!」
「そのTCGメンバーズっていうのに入ると、どんなメリットがあるんだい?」
「まず、映画がいつでも1300円で見れる!」
「それは良いね。アレ?でも入会金と合わせると2300円支払うから500円のマイナスじゃないか!」
「結論を急ぎすぎだよフィル!急いては事を仕損じるだ。チケットカウンターのスタッフさんはメンバーズカードとともに2枚のチケットを渡してくれるんだ。」
「なんなのさ、そのチケットは。」
「一つは”1000円で映画が鑑賞できる”チケットさ。これを使って君には翌日の回を予約することをお勧めするね!」
「え、僕はその日ドラゴン×マッハを見るだけで十分なんだけど…」
「まあ、別に上映終了後に心変わりすると思うけどね。それほどまでにドラゴン×マッハ!が面白いからだ!」
「ハイハイ…(そんな訳ないでしょ)。ところで、もう一枚のチケットは何なんだい?」
「まあまあ、そのチケットの出番はもう少し後だから…。土曜日と日曜日に続けてドラゴン×マッハ!を見た君は、月曜にあることを思うはずだ。」
「(2日続けて見に行く前提なんだ…)」
「”今週の仕事を乗り切るためには今日もドラゴン×マッハ!を見に行って、トニー・ジャーの魅せるダブルニーに勇気づけられるしかない…”と。」
「絶対ないから!あー、そこでもう一枚のチケットの出番ってことか!」
「ノンノン。シネマート心斎橋は毎週月曜はメンズデー、男性の僕たちは1100円で映画が見られるのさ!」
「そりゃ凄い!(別に土曜じゃなくてもその日に見に行けば良いわけか)」
「しかも、今週の上映時間は18時台という会社帰りにピッタリな時間。今週の仕事も乗り切れるはずだ!」
「分かった。ありがとうマイク!」
「待ってフィル。話はまだ終わってないよ!」
「え?」
「月曜はドラゴン×マッハ!のおかげで乗り切れた君だが、仕事はそんなに甘くない!そんな君は徐々にマックス・チャンの華麗な二段蹴りのように、華麗に仕事をさばきたいと思い始めるはずだ!」
「アーハイハイ。やっとこさここでもう一枚のチケットの…」
「まだ早い!なんと毎週火曜日と金曜日はTCGメンバーズなら1000円で映画が鑑賞できるんだ!」
「え?何それ凄い。最近はほとんどの劇場でサービスデーでも1100円なのに1000円で見られるんだ。」
「そういうこと。ここでもTCGメンバーズカードが威力を発揮する訳だ!」
「で、次の水曜もどうせ僕は見に行くんでしょ。」
「察しがいいね。週の真ん中という一番疲労がたまる時期、そんな時に見たくなるのはウー・ジン疲労困憊の中でも刑務所をなんとか逃げ出そうとする大立ち回りだ!」
「で、ここでそのチケットを使う…わけないですね。」
「その通り!フィル、水曜日は何日だか分かるかい?」
「1月25日だけど…」
「毎月25日はシネマートデーといって、老若男女に関わらず誰でも1000円で映画が見れるんだよ!」
「ちょっとシネマート太っ腹すぎるんじゃないか!(よし、この日に見に行こう)」
「でも、フィル何か大切なことを忘れてないかい?」
「…チケットですね。」
「その通り!ここまで来たら普段とは全然違う見た目のルイス・クーにも馴染んでるはずだ!」
「(そもそもルイス・クーを知らないけど…)ということは…木曜も見に行くわけですね…。」
「そう。そして遂にTCGメンバーズに入会した時に渡されたもう一枚のチケットの出番さ。そのチケットは、なんと”無料鑑賞チケット”なのさ。」
「え?ていうことは入会金の1000円で映画1本見れるってことなのか!」
「そういうこと。ただ、この無料鑑賞チケットがついてくるのは2月末までだから注意しような!あと、上映初日から2日間は無料鑑賞チケット対象外だけど、もちろん”ドラゴン×マッハ!”はそんなことないぜ!」
「なるほど、そういうことならTCGメンバーズに入っておいてもいいかもね。」
「そして、1週間を締めくくる金曜日。この大阪、シネマート心斎橋の上映最終日なわけだ!」
「…」
「この一週間で君とシネマート心斎橋には”ドラゴン×マッハ!”を通じて奇妙な絆が生まれてるハズだ!そう、映画でのトニー・ジャーウー・ジンが娘のサーを通じて絆に気付いたように!」
「ていうことは、金曜はサービスデーで1000円で見て来いということですね!」
「流石じゃないか!これで君も”ドラゴン×マッハ!”漬けの充実した1週間が送れるはずだよ!」
「そうなるかどうかは置いといて、とりあえず土曜にシネマート心斎橋で映画見てくるよ!」
「感想楽しみにしてるから!」

〜時は流れて翌週の金曜日(1月27日)〜

「やあフィル」
「マイク!ドラゴン×マッハ!素晴らしいね!僕、あんなに凄いアクションを同じ人間がやってるなんて信じられないよ!今じゃ自然に”殺破狼〜”と口ずさんじゃってるよ!」
「ドラゴン×マッハ!の良さを分かってもらえて僕もうれしいよ!」
「ところで、マイクあれほど勧めてくれたのに、今週君を劇場で1回も見てないんだけど…」
「(ホントに毎日通ってるのか…)」
「今日の最終上映にはもちろん来てくれるよね!」
「…いや、今週はちょっと未体験ゾーンが忙しくて…」
未体験ゾーン!?!?


<補足など>
・男性の場合はこの方法を使うと1週間7400円で毎日”ドラゴン×マッハ”が見えますが、女性の場合は300円増えて7700円になります。それでも1回あたり1100円と大変お得ですね!
・実は翌週でも1/25が2/1になるので、プラス100円で1週間過ごせたりします。ただし、ドラゴン×マッハ!は終了してますが…。
・未体験ゾーンは別に知らなくても大丈夫だと思いますね。