俺と「リアル〜完全なる首長竜の日」

 黒沢清監督の「リアル〜完全なる首長竜の日〜」をちょっと前に見てきました。個人的には映画がストレートに面白かった(ガッツポーズ!)という作品ではないですが、映画が提示してくれた世界観を自分なりにアレコレこねくり回して考えたりする映画でした(ただし原作は読んでない)。
 という訳で今回は感想っていうよりも、映画の内容をもとに色々思考(というか妄想)をした内容を雑駁に書いた内容になっております。っていつもと変わらないな…。


・電車に乗ってくる人
 映画ばっかり見てるとは言え一応社会人である私は、月曜から金曜まで大体同じ時間の電車の似た位置の車両に乗って会社に通勤しております。この朝の電車はほぼ満員電車なので数十人の人が私と同じ空間を朝のひと時とは言え共有してて、もしかするとかなりの頻度で私と同じ列車に乗ってる人も居たりするかも知れないのですが、今日一緒に電車乗った人の顔を誰一人思い出すことができないです。通勤電車の事をブログの記事に書いているのにだ!
 多分、明日も明後日も明々後日も会社に出勤する日は同じ時間の同じ電車に乗って同じ光景が繰り返されると思うんですが、よっぽどの事(それこそ何かとんでもない事件が起きるとか、急に美少女に告白されるとか…)がない限り、電車に乗ってくる人の事を考える機会、というよりも電車に乗ってくる人を電車に乗ってくる人以外の存在としては捉える機会は、今後もないと思うんですよ。そんな彼らは電車に乗ってる時間だけ私の世界に存在する人間であり、電車から降りた瞬間にこの世界から煙のように消え去ったとしても、多分私はそんなことにすら気付かずに、いつもと変わらない生活を送り続けてると思うんですよな。
 当然、彼らにとっての私も、彼らの世界の中ではただの電車に乗ってくる人である訳で、別に私の中身が私以外の何か、例えばロボットやゾンビや遠い宇宙の果てから地球人を滅ぼすためにやって来た異星人だったりしてもまったく問題ないと思うんですよな。彼らにとって多分私は電車に乗ってる人としてしか認識されていないのだから…。


・世界と認識
 のっけから私の中身が遠い宇宙から地球人を滅ぼすためにやって来た異星人だ!という凄い方向に妄想が進んでしまいましたが、私がこの映画で一番グッと来た部分が、世界が個人の認識から作り上げられてるってポイントなんですよ。この世界は色んなものが溢れてるけど、私たちが認識できるのはその中のごく僅かな部分だけで、その僅かな部分で自分の世界を作り上げてると思うわけですよ。なので、同じ空間を共有(それこそ同じ電車に乗ってても)してても、電車に乗ってる人の数だけの世界があるはずだと思うんですよ。
 自分以外の人がどんな世界を生きてるのか気になってしまうのも人の性というもの。もちろん、「知りたい」という欲求にも強弱があって電車に乗ってる人なんかは同じ空間を共有してけど乗ってる人がどんな事を考えてるのか、どんなものを見てるのかという欲求はあんまり起きない訳です。でも、私の好きなモノや強烈に印象に残ったもの(具体的にはやっぱり映画ですよ)については、素晴しすぎてガッツポーズしたくなる作品だったり、モヤモヤしすぎて海に向かって叫びたくなる映画だったり、ちょっとこの映画作った奴に色々問い詰めたい!と思った作品については、他の人がこの作品をどう見てるのか気になって感想を読み漁ったりする訳です。で「この人、実は気分かれた俺の双子の兄or姉なんじゃないのか…」とかいう感想を持ってる人が居たりしたら、そりゃ気になってその人が他の映画にどんな感想を書いたかを読み進めちゃったりするんですよ。まあコレは別に映画の感想だけに限らず、憧れの人(アーティストだったりアイドルだったり)が気になるものだったり、それこそ身近なあの娘が何を考えてるかを知りたかったりする訳ですよ。
 そんな「相手について知りたい」を究極の形で具現化してくれたのが、この映画で描かれてる相手の意識が作り出した世界に入り込むという行為だと思うんですよな。なので原理とかはまったく良く分からないけど、アノなんか凄そうな機械で相手の認識してる世界に入り込むという行為が、「相手について知りたい」という行為と重なって面白いなと思いました。(アノ世界=その人の人格だと思うわけです。)



 とはいえ、まあラストの展開とかにちょっとモヤモヤして海に向かって叫びたくなったりしなくもないですが、「こういう映画は映画そのものも楽しいけど、映画の提示してくれる世界観をアレコレ考えることも含めてやっぱり好きだな」と思ったりした映画でした。



なんかよく分からんけど凄そうな機械。