俺と「嘆きのピエタ」

 嘆きのピエタ見てきましたよ。韓国映画って人間のドロドロした生の感情をこっちに思いっきりブン投げて来て、そのまま走り去っていくような映画がたまにあると思うんですが、この「嘆きのピエタ」はまさにそれでしたな。中盤まではそれほどでもなかったんですが、後半はコチラが内容を消化しようがしまいがお構い無しにはちきれんばかりの激情を浴びせていって、ラストはそんな感情なんて何事もなかったかのようになんか静かに立ち去っていくんですよ。アレは情念を当て逃げする映画だな…と思ったりしました。
 まあ、このままこの映画にぶつけれらたモノを消化せずにズルズル行っちゃうと体に悪いと思うので、色々書いてみてちょっとでも自分の気持ちに整理をつけたいなと思うわけです。

(ココからいつも以上にネタバレなので映画を見てから見たほうがいいと思いますよ。)



 さてこの映画、天涯孤独な人生を送る主人公イ・ガンド(イ・ジョンジン)と、そのガンドの前に突然現れた母と名乗る女ミソン(チョ・ミンス)の物語なのですが、まずガンドの仕事が凄い。とんでもない高利(数日で利息が元本の十倍に)で人に金を貸しておいて、返済に詰まると相手に大怪我をさせて、事故を装った保険金を搾取する訳ですよ。モチロン怪我した人間はその影響で普通の人生を送ることが出来なくなり、障害者として生きていくことになるのです…。私なら三分も持たずに逃げたくなるような仕事を平然とした表情でこなしていくガンド。彼の生活ぶりを見てると、この世に対する恨みとでもいうか絶望とでもいうかなんとも形容しがたい情念に溢れてるんですよ。
 それを最も象徴してるなと思ったのが、ガンドが食事をするシーンです。魚や鳥を風呂場で捌く…というか無骨に解体して、ただ焼いて食べるという原始的な食事。食事というよりも他の生き物の命を自分の血肉に変えるだけの行為という感じで、そこに食べ物の美味しさ、というかその食べ物の味すら感じないような彼の食事風景を見て、彼は何のためにこの世を生きてるのだろうと思うのでした。
 一方で、ミソンもガンドに負けず劣らずの強烈な個性を持ったキャラクターでありました。まあ、普通の人間でも突然現れた母を名乗る女性を簡単に信じることは出来ないですが、当然ガンドのような捻りに捻れた人生を送った男を相手に、しかも彼自身は母親こそが彼の今の人生を作り上げた元凶じゃないかと思ってる節があるわけだが…、その事を信じさせるのは並大抵の事じゃないのですよ。
 普通ならば母親であることの証、幼い頃の記憶であったり、血のつながりを証明する何かだったりを求める訳ですが、ガンドはそんなものではなく”行為”こそが唯一にして母親である事を示すものだとしてミソンに”行為”を求めるのですよな。あたかもその行為がガンドを見捨てた彼女に対する罰であるかのように…。そんな凡人なら目を背けたくなるようなガンドの要求の数々を躊躇いながらも受け入れるミソンを見て、「母の愛って凄いな…」と思ったのです。まぁ、彼女の真の目的は別にあったのですが、その目的すら母性から来るものだったりして、母性から来た目的を果たすために母性愛を手段として利用する母性×母性=母性みたいな、なんか狂気すら感じるキャラクターになっているのです。
 ミソンから多分生まれて初めてら母性愛を与えられたガンドは、砂漠で干乾びそうになっていた旅人がオアシスを見つけたかのようにガンドが与えてくれる母性を求め、また与えられた母性を失わないためにガンドに尽くす訳ですよ。数日前まではあんなに敵視、反抗していた人への態度とは思えないような従順な態度で、それこそ、幼児のような振る舞いで…。


・求めたものと求めなかったもの
 ここからが個人的にこの映画の核心に触れる部分だと思うのですが、ここまで母性を強烈に印象付けられると「何故、ガンドは母性”のみ”をあそこまで執拗に求めたのか」という疑問が徐々に沸いてくるわけです。ミソンに母性を与えられる前は、女性の絵(あれは母親の象徴だと思う)を的にし、ナイフを当てる事で自らが与えられていないものへの恨みをぶつけていたガンド。ミソンから母の愛を与えられた後は、それを失うまいと必死にしがみつくガンド。でも、彼にとって父親も母親と同じく彼を捨てた存在であり、怨みや愛への渇望があってしかるべきだと思うのに、何故ガンドは母親を執拗に求めたのだろうか…。
 個人的には、「父性はガンドの人生に幾度と無く登場しており、その姿に絶望したがために母性を求めるようになった」と思うのですな。じゃあその父性とは何か、それは「カネ」だと思うのです。
 ガンドはその職業柄、何度も何度もカネによって人生をボロボロにしてしまう男たちを見てるわけですが、この映画に登場する男たちの「カネ」に対する執着を見ていると、しかも女性からすればそれはたかが「カネ」であるがゆえに、男=父親に対する絶望と母親に対する渇望が生まれてきたのかなと思うのです。それを最も象徴するキャラクターがガンドの会社の社長(だと思う)ですよ。
 劇中では「俺はあそこまでやれという覚えは無い!」なんて言ってはいますが、数十倍もの高利を返済できる方法はそう多くない訳で、恐らく彼自身がガンドにその方法を示唆したのでしょう。しかし、そんな方法を実行してきたガンドが仕事に支障が出るような存在(=「カネ」を生まない存在)になるや否や、あっさりと切り捨てる自己中心的な男。これこそがガンドが感じ取っていた父性の象徴なのかなと思うのです。ガンドにとって尋常ではない精神状態の中でも、雇い主に対しては妙に従順なところも、父親と子というような関係性を想起してしまうのでありました。


・父性と母性
 では、父性の象徴するものが「カネ」だとすれば、ガンドが求めてやまなかったモノであり、ミソンが復讐のために最大限利用した母性を象徴するものとは何だろうか…。それは、多分この映画のタイトルに通じてくる「慈愛」が、その象徴だと思うのです。個人的にそれを強烈に印象付けられたエピソードが2つ出てきます。
 一つはギターを持った男のお話。他の男たちが「カネ」のために醜悪な姿を見せる中で、彼だけがガンドが行う好意を進んで受け入れる訳ですが、その行為の原動力となるのが彼の息子への愛な訳ですよな。恐らくガンドが見て来た男たちの中でも異質な存在である彼に、ミソンからの愛を知り始めていたガンドは何も出来ずに立ち去ってしまうんですよ。
 もう一つはミソンが眠ってるガンドに行ったある行為。ミソンの行為が復讐のみが原動力になってるだけならば、相手に気付かれない行為はそもそもが無駄な行為となる訳で、眠ってるガンドなど気にもかける必要は無いはずなのですが、あえて眠ってるガンドにその行為を行ったミソン。これこそミソンの「慈愛」としての象徴があるのではないかなと思いました。
 こうやって考えてみると、父性の象徴している「カネ」とは自己への愛「自愛」であり、母性の象徴している他者への愛「慈愛」との対比の映画なのかなと思うわけです。


 映画のラストはガンドのそれまでの人生に対する禊のような行為で幕を閉じますが、この際に行為の対象にした相手も「カネ」への執着が、あんな思いをしたにも関わらずまだ収まらない(それどころか更にひどくなっているように感じる)男を優しく包み込む女性でした。そんな女性に禊を行うことで、父性からの脱却と母性への回帰で幕を閉じた、そんなこと思う映画でしたよ。(ただし、彼自身が歪んだ形でしたか母性愛を受け取れなかったため、歪んだ形でしか表現できなかったようにも感じる…。)