俺と「アメイジング・スパイダーマン2」

 「アメイジングスパイダーマン2」見てきましたよ。諸事情(主に交通渋滞とか)により冒頭数分間を見逃してしまったのですが、そしたらちょうどピーターも大事な卒業式に遅刻しそうになってたので、「ピーターも遅刻してるからセーフ(実際にはアウトである)」と彼に変な親近感を持ってしまうほどに、この映画の主人公ピーター・パーカーは普通にいいヤツだと思うのです。
 「スパイダーマン」と言えばサム・ライミ版もモチロン大好きですが、サム・ライミの描くピーター・パーカー(どちらかと言うとコッチの方が実際の私に近いと思う、モチロン私とは全然違うけども!)とはちょっと違うピーター・パーカーが、「何故ヒーローなのか」って事を感じたのが「アメイジングスパイダーマン2」でした。


 そもそも私の思うヒーローとはなんのか。例えば凄いパワーの持ち主、今回の映画で言えば敵役「エレクトロ」であるマックス・ディロンも、ピーター・パーカーと同じく常人には真似できないスーパーパワーを突然に手に入れるのだけど、もちろん彼はヒーローじゃない。いや、彼にももしかしたらヒーローになる道はあったのかもしれないけど、悲しい事にマックスはその道を選ぶ事が出来なかったのだ。
 逆に、映画のラストシーンで出てくる少年。恐らく私よりも力も強いし、悪に対して殆ど抵抗できないような彼。けれども何故か私は彼がヒーローらしさを感じてしまうんだよ。自分が立ち向かう事も出来ないような大きな力に、ごく普通に立ち向かうその姿勢はまさに私が思う”ヒーロー”そのものなのだ。
 ただ、不思議な事にこの映画の中でヒーローとして描かれるピーター・パーカーは、この映画の序盤の彼とラストシーンの彼とでは、私はラストシーンの彼の方が”より”ヒーローらしく感じるのだな。


 ピーター・パーカーにとっては迷惑千万かもしれないけど、映画を見てる我々はスパイダーマンとしての彼の行動だけじゃなくて、普段の彼の生き方も含めて見ちゃうのだ。そして、その視点から見ちゃうと、ピーターは「スパイダーマンである事よりもグウェンと共に生きる事」を選びそうな男なんだと思えるのだ。もちろんスパイダーマンである事を選ぶのも、スパイダーマンを辞めてグウェンと共に生きるのも彼の自由なので、他の誰かが決めれる訳ないのは当たり前だけどもね…。ただ、彼がスパイダーマンとして活動している時ですら、時折見え隠れするグウェンへの想いを見ると、別に皆のヒーローとして生きていかなくても、彼にとってソレが良いんじゃないかなと私は思う。コレはスパイダーマンにとっても、一人のピーター・パーカーとしても彼女が最大の理解者だからなんだよな。
 しかし、ピーターは映画でスパイダーマンであることを辞めてもおかしくないような大きな喪失を経験し、それでもこの映画のラストで彼は再びスパイダーマンである事を選ぶのだ。NYの人々にとっては、ヒーローであるスパイダーマンが帰ってきた”だけ”の事で、多分以前と同じく皆のヒーローである彼を見て、ある人は勇気をもらい、ある人は安心し、ある人は敵対心を燃やしたりするのだろう。
 でも、映画を見てる私は大きな喪失を経験した彼知ってるだけに、少なくとも以前と同じ彼としては見れないんだよ。その喪失は彼の人生を激変させてもおかしくない、例えばマックスと同じような道を歩いてもなんら不思議ではないような大きなものであり、多分私みたいな凡人だと二度とヒーローであろうとは考えないと思う。
 けれど、ピーターは再びスパイダーマンとしてマスクを被る、その選択こそが彼をヒーローたらしめてるものなんだと思ったのだ。


 前作でピーターはスパイダーマンになる力を得たけど、この作品で彼はスパイダーマンである事を選び、スパイダーマンになった。そんな風に思った作品でしたよ。