俺と「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」

 アレクサンダー・ペイン監督作の「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」を見てきましたよ。それも結構前に…。
 監督の前作「ファミリー・ツリー」のように見終わった後にストレートにほっこりした気持ちになるような作品とはちょっと違う感じでしたが―もちろんこの作品も見終わった後にちょっと暖かい気持ちになる作品ではありますが―それよりも心の中に残ってる引っ掛かりの部分についてアレコレ考えてしまう作品だなと思いました。
 とはいえ、私はこういう作品が非常に好きなんですよね。けど、感想を書こうにも色んな事をがアレコレ浮かんできてなかなか感想をかけなかったのですが、やっぱこの映画で感じた事を記録に残しておきたいなと思うので、雑駁な感想(まあいつもそうだけども...)になってしまうかもしれませんが、自分の頭の中を整理するためにもちょっと思いつくままに色々と書いてみようと思います。

・お金の魅力
 私なんかが改めて書くまでもないと思うが、お金は魅力的だ。お金があれば美味しいものは食べれるし、デカくて綺麗な家にも住めるし、好きなところへ旅行にもいける。有り余る金があれば、毎朝乗ってる電車もめんどくさい仕事からも開放されて、毎日映画館でダラダラ映画を見てもいいのだ。もちろん、お金はそんな欲望をかなえる道具でもあるけども、一方で人を評価してる尺度でもあると思う。例えば、プロ野球選手なんかはその人の実力と金が直結している例だと思うし、私のような小人物は何だかんだで隣の人(もっと言えば同年代の奴とかね)の給料について、口には出さないけども興味を持っていたりするのだ。
 でも、それがこの映画のように「宝くじに当った」と言う類のもので有ればどうだろうか。他人のこういう幸運を羨ましいと思う反面、ある種の妬みなんかも生まれるかもしれない。その妬みのもとはもしかしたら、金と評価の関係から来てるんじゃないかと思うのだ。「その人の能力や実力とは違い、分不相応な幸運で得た金」そう考えてしまうと、「アイツには幸運が舞い込んだのに、自分にはないのはおかしい」と言う感情が生まれてくるのも分からなくはないなと思ったりもするし、その感情が高まっていくと「自分への分け前があって当然だ」と思うようになるわけだ。傍から見れば、宝くじが当った事とアンタとは関係ないだろと言いたくなるような理論だけども、そう思えない状態に人間を落とし込むのがお金の魅力なんだと思う。
 もちろんこの映画では「宝くじに当った」その事自体が真っ赤なウソなのだが、そのウソの持つある種の軽さ、微笑ましさとは異なり、彼らの持つ生々しい感情―しかも本人はそれを精一杯オブラートに包もうとしてるにもかかわらず剥きだしに見えるソレ―は、見ている私にはこの映画の暖かさに隠された小さな棘のように胸に刺さってる気がするのだ。
 そして、多くの人はそんな生々しい感情とは無縁の生活を送りたいと思うだろうが、こちらの意思とはお構いなくそんな人がコチラに迫って来る事もあるだろうし、私の知ってる誰かがそんな感情をぶつけてくる状況になるかもしれない。そして、そうでないと思いたいが、私自身が他人にそんな感情を抱く事、ましてや他人にそんな感情をぶつける事も絶対にないとは言い切れない。何故ならそれほどまでにお金は魅力的なのだから…。


・たまにしか会わない親戚との会話が苦手
 この映画、主人公(ウディ)とその父(デヴィット)が宝くじを受け取りに行く過程で父の故郷に立ち寄るのだが、なんかそこでの様子が凄く親近感を抱くんですよな。個人的に悪い感情とかは一切ないのだけども、私は親戚との会話が苦手だ(まあそもそも得意な人が居るのかどうか良く知らんが…)。親戚に対して「まあ、元気にやってれば良いんじゃない」程度の思いしかない私は、特に向こうの事情に立ち入った話もしないし、逆に込み入った話をされても困るのだな。だから、挨拶程度の会話が終ると特に話す事もなく、静かにしてる時間の方が長かったりするし、私の目の前で交わされる近況報告的な会話には逆に無心になって聞き流してることが多いのだ。だから男衆がテレビを見ながら特に会話もしない様子が凄く親近感を持ったのだよね。
 ただ、奇特にもコチラに絡んでくる親戚(主に叔父)も居るのだが、そういう人と話してると「いつまで経っても自分は子供のままなんだろうな」と思ったりするのだ。多分、子供の頃は接してる機会が多かっただろうから、彼の中での私のイメージはいつまで経ってもその頃のままなのかもしれない(あと、私が独身である部分も大きいと思う)。私としては彼の思ってるイメージとはちょっと違う人間になってると思うのだが、ソレを説明するのもメンドクサイし、説明したとしても向こうの認識を変える事も出来ないと思ってるので、特に反論もせず向こうの持ってる持論を聞き流してるだけである。(そして、更に親戚との会話が苦手になる…)
 これは、別に親戚に限った話じゃないけども「いつまでも人は変わらない」んじゃなくて「人と人との関係が変わる事を認められない人」って言うのが居るんじゃないかなと思う。モチロン、久し振りに会った友人みたいに、その関係が変わらないことが変わらない方が良いなと思うものもあるけど、「お前はいつまで経ってもこう有るべきだ!」って関係の押し付けをしてしまう人は居ると思う。この映画で言えばデヴィットは久し振りに故郷に帰ってきたわけだけど、特に彼の昔の商売上のパートナーだったエド(コンプレッサーを返してない男)の節々から感じる、父を小ばかにしたような感情や「分け前をよこせ」理論から、そんな事を思ったりしたわけだ。多分、彼はいつまで経っても父を自分よりも下の人物だと思い続けるのだろうな…。(逆に思ってるのなら、「分け前をよこせ」なんて事は言わなかったように思う)


・人に対する理解
 さて、そんなエドに限らず主人公は故郷で多くの人と出会うのだが、基本的にそれらの人の人物像は父を介して形作られてるだろうなと思うのだ。実際に主人公がその人たちをどう見ているかって事は、正しくは理解出来てないかもしれないけど、少なくとも見ている私―主人公ウディになったつもりでこの世界を見てると思ってる私―は、コレまでのお話で作り上げた父イメージと彼らの持つイメージの違いの差から彼らと私の人間性の差を測っていたのだと思う。でも、コレは良く考えてみると私自身が「人と人との関係が変わる事を認められない人」そのものだと言う事に気付くのである。私には私の父のイメージがあり、ソレが変化しない普遍的なものだと思ってる(もしくは彼らの知らない本当の父親を知ってると思ってる)だけに、そこから彼らの姿を理解してるつもりになってると感じたんだよな。
 例えば劇中での母に対する私のイメージ、口汚く父を罵るだけのように思えた彼女のイメージがあるシーンで一変したように、実際には私が理解している以上に父の事を正しく(と言う言葉自体が正しくないかもしれない)理解してる人もいて、その人たちに対してを私のイメージで正しく推し量る事ができるのかと思うのだ。あくまでも私のイメージしてる父との差を測ってるはずなのに、いつの間にかソレが人間性の差にすらなっているのだ。その人の本質を見ようともしてないのに。
 そして、それ以上に私に対して突きつけられてるのは父に対する理解だったのだと気付くのだ。いつの間にか自分の中に勝手なイメージを作り上げて、その人を分かったつもりになってる私。コレこそこの映画の主人公ウディそのものじゃないのか。でも、彼は私と違ってこの旅の中で父親との関係(モチロンそれだけじゃないけど)を再発見できたのだ。
 そう思うと、私もそんなこと(私自身の身近な人に対する理解)が出来るような人間になれれば良いなと、普段は考えもしない父親の事を思ったりする映画でありました。