俺と「おとなの恋には嘘がある」

 「おとなの恋には嘘がある」を見てきましたよ。邦題だけ見るとちょっと敬遠しちゃうかもしれない作品ですが、FOXサーチライトの作品と聞いて俄然見る気が!あと、当日料金が一律1,000円の特別料金という事で早速見てきました。
 予告編から受ける感じだと大人の恋愛映画って感じを予想しましてましたが、実際に見てみるとモチロン恋愛の要素も非常に大きい作品ですが、それ以上に大人の人間関係(家族だったり、恋人だったり、友人だったり)の苦味みたいな事を感じる作品でした。ここら辺の感じは同じくFOXサーチライトの作品で今年上映された「セッションズ」と通じたりする雰囲気が感じられた気がしましたね。
 こんな邦題だし公開規模も小規模なので、あんまり多くの人の目に触れないかもしれない作品かもしれませんが、そんな扱いがもったいないようないい作品だと思うので、多くの人に見て欲しいなと思うのでした。


 私みたいな人間だけかもしれないが、年齢を重ね、色んな人間関係を経ていくと、なんだか他人に対するに期待値が下がっているような気がする…。モチロン、全ての人への期待値が低い訳じゃなくて、そうじゃない人もいっぱい居るのは当たり前だ(そもそも。他人に対する期待値が低いって上から目線がナニサマだっ!ていう話だけども)。でも、コッチが「流石にこの程度はやってくれるだろう…」と思ってる事がダメだったりすると、だんだん「コレだけはやってくれるだろう」が「最低限コレだけで良いや」みたいに、徐々にハードルが下がっていくようになってるのだ。
 ただ、下がっているのは期待値だけであって、実際にして欲しい事のハードルは下がってないので、その分のギャップをドコかで埋めてるとのだな。その下がったハードルをカバーするために、自分や他の誰かが補う努力してるのかもしれないし、その不満がストレスみたいな形で蓄積したりすれば、ドコかにはけ口を求めても仕方がないと思う。そして、それがある日突然爆発したりするかもしれないのだ。
 
 何故、私は他人に対する期待値を下げるのだろうか。別に、期待値を下げなくても、その人に期待値だけの事をしてもらうようにお願いするなり、やり方を一緒に考えるなり色々やりようはあるはずなのにだ。言い訳じゃないけども、一つはそういうやり取りをするのも「メンドクサイ」と思ってるんだと思う(もしくは、経験から期待値を下げた方が楽だと判断してる)のだな。
 別に、子供のときがそうじゃなかったとは思ってないけど、どうも今の私はより「他人との関係を維持する事」を選んでるような気がするのだ。二度と会う事のない人とかだとそうじゃないかもしれないけど、その人に何かを求めるよりも、「ああ、こういう人なんだな」と自分を納得させて相手と付き合う事を選んでる気がするのだな。その関係に私自身が小さな違和感を持ってたとしても、その部分を直すよりも違和感を押し殺す事を選んでるのだ。
 それがこの映画の原題である「Enough said」(もういわなくても分かってるから)って部分に通じるような気がするのだな。人生の中で何度もこういう「Enough said」の場面に遭遇―これは何度も同じ事を言う側であったり、言われる側であったりすると思う―し、その経験の中で、私は違和感を押し殺す事が「おとな」であるという風に思ってるのだな。


 でも、この映画で描かれているように、実はその違和感は多くの人が抱えてるものなんだろうな。モチロン、私自身に対しても「コイツはこういうヤツだから」って思ってる人も居るんだと思う。ただ、この映画で描かれてるホントの「おとな」の関係ってのは、違和感を押し殺す事よりも、ソレをお互いにぶつけ合う関係だと感じたのだ。
 私みたいな臆病な人間は、違和感ぶつけ合う事でその関係が壊れる事を恐れるのだけども、その違和感の蓄積で続けようとした関係が壊れるかもしれない。そんな関係じゃない、本当の「おとな」の関係とはお互いの違和感をぶつける事でむしろ強固になる関係の事をいうのだろうな。
 そして、おとなの恋っていうのはそんな関係を築けるパートナーと出会える事を言うのだろうな...そんなことを思う作品でしたよ。



この映画で印象的な男アルバートを演じたジェームズ・ガンドルフィーニは、この映画の公開前に51歳の若さでこの世を去った。
この映画のエンドロールに出てくる「For Jim」は彼に捧げられた言葉なのだな…。