俺と「フランシス・ハ」

こないだシネマート心斎橋で見た「フランシス・ハ」が非常に印象的でアレコレ考えちゃう映画だったので、忘れないように感想をちょこっと書いてみますよ。


 他人の不幸は蜜の味じゃないけども、なんか頑張ってるけど空回りしてる人が滑稽に見えるときがある。この映画の主人公フランシスはそんな空回りをしてる人そのもののようだし、彼女も間違いなくそんな人を笑っちゃうような人物だと思うな。もちろん、私もご多分に漏れず他人の不幸を指差しながらゲラゲラ笑っちゃうような下衆野郎なので、フランシスの空回りっぷりをニヤニヤしながら眺めちゃうのだ。
 フランシスの行動の一つ一つは傍から見てるととてもしょうもないものなのだ。例えば、無意識(もちろんそうじゃないけど)のうちにの口から出て来る他人の痛いところあけすけと言う一言もそうだし、思いつきで行動する変な事もそうだな。そして、フランシスは一見できもしないような事(もしくはやらなくてもいいようなこと)をすぐに口にするし、結局その口にした事を取り繕うために余計に深みにはまっていく。フランシスの中ではホントはもっと上手く歯車が回っていくはずなのに、何故かそれが上手く行かないのだ。
 特に、フランシスの中で何よりも大事にしていた関係―いつまでも変わらない関係であると思っていたソフィーとの関係―も、フランシスが思いも寄らぬ所から、フランシスの思っていた方向とは違う方向に歯車が回り始めるのだ。
 自分こそがソフィーの最大の理解者であり、ソフィーこそが自分の最大の理解者であると思っていたはずなのに、自分の知らない一面を見せる彼女。しかもよりよって赤の他人からその一面を聞かされる、その時のなんとも表現しにくいモヤモヤした感情。怒りのようでもあるし、哀しいようでもあるし、嫉妬のようでもあるし、落胆のようでもある。そのありとあらゆる負の感情が渾然とした気持ちを覆い隠すために、彼女はまたダメな方向の行動を取ってしまうんだよな。


 そんなフランシスの行動を見ていると、彼女の様子を見て可笑しいという感情が、徐々に私の中で変化していってることに気がつくのだ。


 映画の後半、フランシスはふとしたきっかけでソフィーと再開する。ただ、思いもよらぬ事にこの場面でのフランシスとソフィーは依然とは全く正反対なのである。全くフランシスらしくなくソフィーのような振る舞いを取るフランシスに対して、まるでフランシスのように幼く、だらしなくて、自分本位の行動を取るソフィー。フランシスと対比すれば順調そのものという人生を歩んでいたはずのソフィーだったのに、彼女の人生もどこかで少しづつ歯車がずれて行ってたのだな。
 多分、人生の歯車が狂う時のいくつかは、一個人(フランシスやソフィー)の力だけでは如何ともしがたい何か、それこそ運命とでも呼ばざるを得ない何かが関わってるのかも知れない。そんな運命に絶望した個人は自暴自棄になったり、逆に他人の事を安易に傷つけてしまったり、そんな行動をとってしまうんだろう(もちろん、それが正当化されるわけじゃないけどね)。
 そう思うと、私の感情の変化も、私自身が持っている”フランシスらしさ”に気づかされた事に起因してるんだと思うな。私自身(というか誰でも持っている)フランシスらしい部分がどこかとてもいとおしいのだ。

 そう、人生なんて上手く回ってる時の方が少ないし、それに抗おうとする人の様子は傍から見ると滑稽に映る時もあるだろう。でも、やっぱり私はそんな不器用な人たち―フランシスや私を含めて―を抱きしめてあげたいな。そんな気持ちにさせてくれる映画でした。


  この世界を生きる多くのフランシス達に幸あれ!!