俺と「ソロモンの偽証 前篇・事件」

 「ソロモンの偽証 前篇」を見てきました。面白い、ホントに面白い作品で、映画を見てる最中に久し振りに動悸が止まらなくなるような気持ちになる、そんな作品でした。
 さて、この作品前篇と銘打ってるだけあって、物語は「ココで終るのか…。今すぐ後篇が見たいぞ!」となるような部分で終ってしまいます。そんな作品なので、普段の私なら前後篇見た後で評価したいなと思うわけです。しかも、この作品の核心となっている謎の部分については一切明かされることなく後篇に続くのなら尚更に…。でも、この作品に一番私が痺れた部分は、例えば「真実は何か!」、「犯人は誰だ!」のようなミステリー的な要素じゃなくて(極論を言うと後篇で「自殺した彼は月から来た宇宙人で、あの日月に帰ったのだ!」なんて荒唐無稽な展開になったとしても、前篇の評価は何一つ揺るがないと思う)、作品全体を覆ってた中学生(もしくは中学校)独特の空気みたいな部分だと思うので、そこについてちょっと書いてみようと思います。


 数年前に「桐島〜」を見たときも既に高校時代は十年以上昔の出来事だったのだが、あれから数年経過した今、今回舞台となっている中学生の頃なんてホント人生の半分より前の出来事になってしまった。でも、あの頃から変わっている部分…もうとっくに私の中では忘れてしまったようなところもあれば、成長していないように感じる部分もあり、この映画を見るとそのどちらもを抉り出すような作品だと思った。
 中学時代も…いや今もかもしれないけど、「大人は嫌いだ」と思っていた。良く使われる言葉で言えば「中二病」ど真ん中だったなと思う中学生時代だが、この映画の中で描かれる大人たちの多くは、そんな”嫌な大人たち”が多く登場する。
 映画序盤、クラス担任である森内恵美子(黒木華)は望月の自殺について生徒たちの眼前でおおよそ大人とは思えない行動―自殺した生徒を非難し、自身の責任を否定して泣き崩れる―をとるのだ。*1また、一方的に敵役を作り上げ、他人を簡単に断罪していくマスコミや、それを鵜呑みにする人々(後に手のひらを返したように態度を変える点も含めて)、そして極めつけは体育館で藤野涼子を非難する教師たちだ。そんな彼ら、彼女たちの様子を見て、主人公藤野涼子の中にどんな感情が芽生えていったのかは想像に難くない。
 しかし、私自身も”嫌な大人”になってしまった今、そんな彼らの考えも分かってしまう。もし、仮に自分がクラス担任だったら、降って湧いたようなとんでもない出来事の責任(があるかどうかすら分からないのだ!)から逃れたくなるだろうし、直接関係がないのにも関わらず、声高に他人の不誠実さをなじるかもしれない。なぜなら、ソッチの方がめんどくさくない―真正面から生徒の自殺に向き合う労力や自分自身の目で出来事をしっかりと調べる事に比べれば遥かに―からなのだな。ましてや、今更あの出来事を蒸し返そうとする生徒がいるなんて、なんてめんどくさいんだ!と、教師たちが思うのもとてもよく分かる。でも、決心を決めた藤野涼子の一言一言は、見ている私、めんどくさい事から目をそむけるようになった嫌な大人、藤野涼子が背を向けたであろう道を歩んでる私に、鋭く突き刺さってくるのだ。
 もちろん彼女は初めから声高に正論を叫んでいた訳ではない。むしろ、私と同じくめんどくさい事から目を背け、めんどくさくない事を選ぼうとした普通の少女なのだな。でも、少女の中の葛藤、予期せぬ出来事、そして彼女の中の決心を見てしまった私は、彼女の放つ一つ一つの正論をただただ受け止めるしかないと感じてしまう。
 ただ、この映画の登場人物は、もちろん皆が皆彼女のような強さにあふれているいる訳ではないのだ。まだ幼さの残るドコか朴訥な雰囲気の野田健一(前田航一)が藤野涼子の側に支えている様子や、藤野とはちょっと違う正義感に溢れる西村成忠(井上康夫)の行動、そして、大人になった今となっては「たかがにきび」という程度の出来事に執拗なまでに暴力的になれる少年たちの様子、この全てが私もかつて通ったあの頃を思い出してしまい、なんとも言えない思いが心を満たしていく。


 私にとってのこの映画は、あの頃の自分にぶつけられた思いを受け止める映画でもあり、あの頃を様々な思いを思い返す映画でした。ただ、一方で今を生きてる彼ら、同じように中学校に通い同じような生活をしている現代の彼らは、果たしてどんな思いでこの映画を見るのだろうか、そんな事がふと思い浮かぶそんな映画でもありましたね。


*1:この時多くの生徒もつられて泣き始めるのだが、泣いていない生徒が裁判の中心人物になる。