2015年3月のごく私的な日記

 2015年3月の某日、いつもと同じように始業時間ギリギリに出社して、いつもと殆ど変わらないドタバタとした朝をすごしていたら、他の部署の先輩から一本の電話があった。


「急な話になるんやけど、A君が事故にあって亡くなったんよ…。会社からは後で正式な発表があると思うけど、ソッチの部署の事でやることあれば宜しく頼んだよ。」


 その時に自分が何を話していたかは全く思い出せないのだが、電話口では多分普通に受け答えしてたのではないかと思う。その後も恐らく普段どおりの様子、仕事の打ち合わせがあれば何事もなかったようにその話をし、出さなければならない書類があれば上司に承認を貰い、会議に出たり(その日はたまたま午後から長めの会議が入っていたのだ)してたと思う。ただ、それとは違う、普段はしなくていい事、A君の葬式の準備(部署や同期に連絡し花やお供え物の手配の段取りをする)もしなくてはならず、あっという間に時間が過ぎていったように思う。
 今思い返してみれば、その日が忙しくてとても良かったなと思った。しなければならない事に没頭できる事で、考えてしまう事―A君が死んだという現実―をドコか別の出来事のように感じていたのかも知れない。ただ、その日の仕事が終って帰りの電車に乗ってる最中、家に帰ってる歩いてるとき、家で一人でいるとき、ふとした瞬間に身近な人が死んだという得体の知れない衝撃が、徐々に私の頭の中にもやのように広がってくるのを感じた。書いてる途中だった映画の感想も、やろうと思ってた事も殆どできずに、その日は早々に眠りについた。


 A君は会社の一年後輩にあたり、年齢もちょうど1歳年下であった。彼の入社時には同じ部署で仕事をしてた事や二人とも同じ野球が好きだという事もあり、ふだんから色々話したりたまに飲みに行ったりする様な(といっても私は酒は飲めないのだが…)という間柄であった。ただし、イマイチ自分の年よりも若く身近な人が死ぬという事が、私の中で正しく処理できてないような気がする。端的に言うと、彼が死んで哀しいという気持ちが上手く出てこないのだ。(これは彼の葬儀に参列している時も、そして今でもそうだ。)
 もしかしたら、私の頭の中でははじめの電話を受けた時から「彼が死んだ事」を既にそういうものとして処理してしまっているのかもしれない。ただ、頭の中で処理できてる部分と処理できない部分のせめぎ合いがあって、時折、得体の知れない衝撃が頭の中を覆っていくのかも知れない。
 それとも、今はそうじゃないかも知れないのだが、徐々に彼が居ないという事の哀しさが込み上げてくるのだろうか。
 イマイチ、自分の事が良く分からない。