俺と「家族を想うとき」

ケン・ローチの新作「家族を想うとき」を見ました。

監督の前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」同様に現代社会に対するかなり痛烈な批判が込められた非常に重いテーマの作品であり、個人の善意ではどうしようもなくなってしまった現代社会というシステムが生み出した地獄を描いた作品でした。

 かつては建設現場で働いていた主人公のリッキーは、友人から稼げる仕事と聞いてネット通販の配送業者の仕事を始めます。妻も介護職として働きに出ており、学校では成績は優秀ながら問題児として目を漬けられている息子と健気に一家を支えるそぶりを見せる娘という4人暮らしの一家の大黒柱でもある彼は、なんとかこの生活から抜け出すために配送業の仕事で一生懸命に働くのですが、家族のすれ違いは大きくなっていき…というお話。

主人公として取り上げられる人たちは善良な市井の人といった感じの家族であり、勤勉で真面目。他者についての優しい心も持っているけれど、金とゆとりのなさが徐々に人を追い込んでいくという構図は、善人が報われない社会システムに対する問題提起として、前作同様のメッセージ性を感じる作品だ。

ただ、前作では、主人公のダニエル・ブレイクが悲劇的な結末を迎えることでシステムの悲劇性を強調していたのに対して、本作はリッキー一家が悲劇的なシステムから抜け出せないことが、システムという巨大な構図に対抗することへの無力さ、与えられた現状に適応することが更にシステムを維持する力となっていることになっており、少なくとも悲劇的な事象を迎えるに至っていないのに、前作以上に現実にある”地獄”を感じさせる内容で重苦しい話になっていた。

 

個人的に本作で特に印象に残った点は、リッキーの妻アビーが働く先の老女が語る過去の話であり、傑作「パレードへようこそ」で描かれたサッチャー政権時の炭鉱ストライキ時の様子を懐かし気に、そして誇らしげに語る彼女の様子は、「あの頃できた労働者たちの連帯が、何故できなくなっているのか」ということに対する監督からの強いメッセージのように感じた。

ただ、監督自身もそれがあくまで「良かったころの残滓」としてしか描いていないことに、あの頃よりもより高度なシステムで労働者が管理されてしまっている現状に対して、監督自身が明確な処方箋を見つけ出せないでいる憤りを描いているようにも感じる作品だと感じたのだったし、良かったころの結果が現代の地獄と地続きになっている現状に責任を感じているようにも感じる作品だった。