俺と「ウィンターズ・ボーン」

大阪・ステーション・シティ・シネマ(長いよ!)でウィンターズ・ボーンを見てきたよ。
重苦しくて閉塞感がある映画だったけど色々考えさせられる部分が多い、いい映画でしたよ。普段はパンフレットを読みながら、色々な思いを反芻しつつ感想を書いてますが、今回パンフレットが完売してたのでいつも以上にとりとめの無い駄文をダラダラ書くよ!


本作から感じる”重苦しさ””閉塞感””絶望感”etcの大部分はこの作品が描いている特殊な環境、端的に言うと田舎の濃い人間関係に起因する怖さによる部分が多いと思いましたが、そういえば韓国映画の『ビー・デビル』も本作同様に閉鎖環境に暮らす人々の異常性と、そこから逃れることのできない閉塞感が作品の重大な要素だったよなぁと思ったりして鑑賞していました。
その他に思いつくままに共通点を挙げてみると、
・家族内での女性の占める役割の大きさ(圧倒的といっても過言じゃない)と男たちのぐうたらさ
・トラブルには徹底的に傍観者で居ようとする処世術
・公的権力よりも一族内での掟(もしくは権力者の意向)が重視される傾向
要は、アメリカだろうが、韓国だろうが(恐らく日本でも)人間が生きて社会を形成する以上、程度の差があれど同じような環境が生まれるのは至極当然なんだよ、ということを思ってみたり…。
ただ、本作と「ビーデビル」の決定的な違いは"一族"の描かれ方の部分にあるのかなと。


「ビーデビル」ではあくまでも復讐の対象として描かれる"一族"なので、見てる側としてはとてつもなく独善的で憎憎しくて、『ぶっ殺されて当然じゃん』とカタルシスを感じる一切肯定できない存在なわけです。また、主人公が外の世界を経験して故郷に戻ったという立場なので、"一族"のもつ異常性、特異性がより際立って描かれてるのかなと。最終的に『ビー・デビル』では、ある種自業自得として、己が持つ業に身を焼けれる形で"一族"は崩壊してしまいます…。
一方で、本作の"一族"は『何はともあれ"一族"の掟が最優先!何故なら"一族"の存続がもっとも大事だから!』という基本原理に忠実な共同体として描かれており、この基本原理の部分が否定しにくいだけに、単純な悪の存在として割り切ることができないなと思いました。結局、会社組織なんかも程度の差こそあれこの基本原理に忠実なわけで、その部分を生々しく見せられることに嫌悪感を覚えても、完全に否定はできないなと。
主人公リー(ジェニファー・ローレンス)自身の立ち位置も、"一族"の掟を理解しつつも自らの家族を食わせるために何とかしなきゃいけない立場なだけに、利害関係を巡って一時的に"一族"と衝突してしまいますが、最終的には"一族"の中に取り込まれたのかなと感じました。だからこそ、"一族"の掟に対する不満はあれど、"一族"そのものに対する怒りというものは感じなかったなと、その部分が復讐劇であった『ビー・デビル』との大きな違いなのかなと思いました。(それにしても17歳の少女にそれだけの責任負わせてかつそんな決断をさせるなんて酷だよなぁ…)


(彼女は17歳だけどたぶん私よりも大人な存在だと思う)


ただ、彼女自身がこの"一族"の枷から解き放たれたいと思っていないという訳ではなく、この状況を何とかすべく救いの手にすがり付こうとするわけで、それが軍隊への入隊だった訳だと思いました。ただし、向こう側から完全無欠120%正論(今の君が入隊した場合残された家族はどうなる、その決意でやっていけるほど甘い世界ではない等)を言い渡され、その救いの手からも見放されてしまいます。あのシーンにこそ、この映画での最大の絶望感があったなぁと。
恐らく彼女にとっては軍隊への入隊はこの閉塞した状況を打破するための唯一の手段であった筈で、自身の本当に希望している方向を捨ててまで(序盤の学校のシーンを見る限り別の方向性を希望している節があると思う…)、軍隊への入隊という現実的な手段を選んだ訳です。しかし、その唯一の希望から全く持って言い返すことのできない、かつ善意から来る否定を食らったことが、結果として彼女をこの閉塞した状況に縛り付けることになったのかなと思いました。


その他
・メラブ(デイル・ディキー)率いるあの一族の女性陣の感じが、ザ・ファイターの家族と似ていると思ったり。
・結局リーも成長するとメラブのような立場になるのかなぁ、願わくば何とかなってほしいが…。
・良く考えるとあの一族って日本で言う所のヤクザだよなと。
・ゲイル(ローレン・スウィートサー)以外に同世代の人間が殆ど出てこなかったけど、やっぱり閉塞感に嫌気が差して出て行くのかな。
・テキサスにもとんでもない一家が居たりするしアメリカの田舎は怖いね。(偏見)
・後はとにかくリスのシーンだよ!