俺と「紙の月」

吉田大八監督の「紙の月」を見てきました。前作「桐島、部活やめるってよ」はその年のベストに選んでしまうほど大好きな映画だったのですが、第一印象としては「桐島のときほどのガツーンと来る感はないけど、なんだか心に引っかかる部分があるな」という感じでした。
 ただ、数日後この映画についてちょっと人と話す機会があり、その後もこの映画について色々考えてるうちにもう1回見たくなったので、先日2回目の鑑賞をしてきた訳です。その時にちょっとだけ自分についてこの映画がどんな映画だったのか分かった気がしたので、それを忘れないようにメモしておきたいと思いますよ。

1994年。梅澤梨花宮沢りえ)は、夫(田辺誠一)と穏やかな日々を送り、契約社員として働く「わかば銀行」でも、丁寧な仕事ぶりで上司の井上(近藤芳正)から高い評価を得ていた。一見、何不自由のない生活を送っている梨花だが、自分への関心が薄く、鈍感なところのある夫との間には空虚感が漂い始めていた。そんな折、梨花は客の孫平林光太(池松壮亮)と不倫関係となり、光太との関係を続けるために横領に手を染めていくのである…。

 この映画のストーリーはざっくり言うと”夫との関係にすれ違いが生じ始めた女性が出会った若者と不倫関係に落ち横領に手を染める”という、映画のストーリーというよりも、ワイドショーやスポーツ新聞の三面記事で取り上げられるようなどこかで聞いたことのある話、映画の中の台詞を借りるなら”よくある”話だ。
 勿論、横領や不倫なんていう個々の話ですら、実際の私の人生の中で多々耳にするような話ではないのだが、この映画の各々の俳優陣の持つ雰囲気、例えば梨花の顧客であり光太の祖父を演じる石橋蓮司のめんどくさい感じや、梨花の会社の上司である近藤芳正梨花に向けるねちっこい視線、優しい言葉使いだけどどこかうつろな中原ひとみの様子、そして一見軽薄な感じがするがその一方で鋭い一言を投げかける大島優子。彼や彼女たちの”それっぽさ”が、この映画をとてもありがちな雰囲気を持つ映画にしていると思うのだ。


 ただ、この映画の主人公梨花はそういう”それっぽい”人から一線を画す存在だと思う。ここでいう”それっぽくない”人とは「いやー、彼女がまさかそんなことする人とは夢にも思わなかったですねー」なんていう”それっぽさ”とは勿論違う、彼女の心の奥底に眠るある種の狂気みたいな部分の現出が、彼女を”それっぽい”人から一線を画す存在にしているのだと思うな。そして周りの人々の”それっぽさ”が彼女の狂気をより際立たせているのだろうな。


 私が感じた彼女の持つ狂気とは何だろうか。例えば、劇中で梨花の起こす行動、少女時代の盗み、銀行員として行う横領、それらの行動のもつ倫理観のゆらぎが狂気じみているのだろうか。いや、私はそれ以上に、彼女の持つある種の行動の継続性に今日生地見たものを感じてしまうのだ。
 少女時代の彼女はクラスで行う寄付を”続ける”ために父の財布から少女には大金となる金額を盗む。もし、これがシスターに咎められていなければ、私は彼女は再び何らかの手段で大金を得ようとしたのではないかと思う。彼女にとっては行為の善悪よりも、行為を続ける事の方が大事なのではないか、そんな事を彼女の行動の節々から感じてしまうのだ。
 梨花と光太との関係も何度と無く関係を終らせるタイミングがあったはずだ。例えば光太が大学を辞めたとき、碌に働きもせず徐々に返済が滞るようになったとき、そして彼が梨花以外の女性と関係を持ったことに気づいたあの時。だが、彼女はそんな時ですら自分から関係を終らせようとはせず、あくまでも関係を続けようとするのだ。
 これは彼女の横領についても同じことが言えると思う。化粧品の支払いのために立て替えた1万円、光太のために用立てた200万円、これらは彼女の中でその行為を行う理由があって行っていたのだろう。もちろん、徐々に大胆になっていく彼女の横領は、光太との関係を続けるためにあったのだろう。 ただ、彼女と光太との関係が終ったあとも、彼女は横領という行為を止めようとはしてないのだ。(ただ、横領の一端が発覚した後に他の方法を探ろうとはするのだが、結局行動を起こさず終る。)
 彼女の全ての行為には何かしらのきっかけがあり、しかしながら彼女はそれまでの行為や関係を終らせようとして―例えば夫との関係を終らせるために光太選んだようには私には思えないし、彼女は夫との微妙な関係と光太との関係をずるずると続けていただろう―行動を起こす訳ではないのだな。むしろ、彼女は何かを続けるために他の何かを行う、そんな人物に感じるのだ。そして、その継続に関する彼女の執着にこそ、私が最も狂気を感じた部分だと思うのだ。


 映画の終盤、銀行員の同僚隅より子(小林聡美)から問い詰められた梨花は、最終的に全てを投げ出し走り出す。その様子はかつての彼女と異なりとても清清しく感じる。彼女自身も何かを継続することへの執着を重荷に感じていたんじゃないだろうか。多分、彼女がこの時投げ出したのは横領だけに留まらず、夫との関係を含めた現在の彼女たらしめていたもの全てからの開放に、至上の喜びを感じていたのではないだろうか。
(ただ一方で、彼女は再び何か、例えば逃亡し続ける事に、また執着するのだと思う。)


 何かを続ける事に執着する一方で、それからの開放を望む心情も持っている。人間とはなんと業の深い生き物であろうか…なんて事を思うそんな映画でした。



劇中の大島優子はその言動も含めて、この映画の核心に触れる存在だったのではないかなと思ったな。